高校をドロップアウトした僕が米国で映画監督になるまで【前編】

【後編も公開中】

2年前の夏、仲間うちでのビアパーティにたまたま顔を出したら紹介されたのが、アメリカで映画を撮っているという中島 央だった。筆者と同世代で30代半ばだった。

夜でも、室内でもサングラスを外すことはなく、シャイな性格なのは伝わってきたが、ひとたび映画のことになるととても饒舌になった。その時は、最初の映画が日本でも評価されてきた頃。まだまだ知名度は低かった。アメリカで映画監督をやっていると聞いて、アメリカで生まれて育ち、専門の教育を受けて監督になったのだと思った。

しかしそれは違った。日本で生まれて二十歳ごろまで全く英語が話せなかった男が、どのようにしてハリウッドで勝負する映画監督になれたのか。俄然興味がわいた。

まったく英語が話せなかった10代の終わり。自称・「落ちこぼれ」で居場所をなくした少年は、ニュージーランドへ旅立った。

「もう選択肢がなかったんです。どの高校もことごとく落ちて、学区外に進学。その学校すら面白くなくてそのうち登校しなくなった。朝起きて、ばあちゃん家に行って小遣いをもらって、毎日毎日、映画館で映画を観ていました」

父親が大の洋画好きで、幼いころから毎日一緒に観た。映画談義もしょっちゅうだった。

「そんな環境だったから、映画だけはずっと好きでした。上映館にもこだわり、銀座の映画館まで通いました。まあ、学校をサボって観ていたんですが‥持たされた弁当は、映画館の暗闇の中でこそこそ食べて」

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結局、やっと入れた学校も退学することに。隠しきれず打ち明けた母には、当然、烈火のごとく怒られた。母親には中学時代、映画禁止にされたこともある。しかしある日、母親が「ニュー・シネマ・パラダイス」を観て号泣、映画のよさはなんとか理解してくれた。

「退学した僕に、やるならとことんやれと、朝、父親が出勤してからこっそり映画を数本借りにいかされ、毎日観ました。父親にはしばらく退学したことを伏せていたんです。が、やがて、父親も知るところとなりました。日本で進学できないなら、と留学は苦渋の選択。場所なんて適当。たまたま新聞で見つけたニュージランドフェアに留学斡旋業者が来ていたから、ニュージーランドに決まったようなものです。その当時は、日本の私立に行くより、ニュージーランドの留学の方が費用が安かったので」

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かくして、青年はニュージーランドに旅立つ。最初の半年はホームシックと英語が話せないイライラで辛かった。

「でも10代ってスポンジみたいなんですね。あっという間にアカスタムして(慣れて)、気がついたら英語の授業についていけるようになりました。そこで最初の語学学校から高校に転籍。ニュージーランドの高校では、音楽が好きな奴らはバンドをやっていて、俺も観ているだけでいいのかな、アチラ側(制作側)にいきたいと漠然と思うように」

彼らを見て、口で何を言っても、行動しなければ人は信じてくれないと痛感した。だから高校卒業、帰国後も、“映画をやらないと”という焦りが常にあった。

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「スーパーでバイトして金を貯め、映画好きな仲間を集めてとにかく映像を撮りまくりました。可能な限りこだわりたくて、タウンページ片手に片っ端から制作会社や劇団に電話をかけて協力をお願いし、ノーギャラで機材や俳優を集めたり。すごく楽しかったし、編集も時間をかけた。でも、なかなか次のステップに進めない。そこで、尊敬する映画監督の書籍を読んだら、とある大学の映画学科で学んだと書いてあって。2年必死で働いて資金を作り、TOEFLを受けて、米国の大学を受験。結局2つの大学の映画学科で計6年学びました」

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住んでいたのは、オレンジ・カウンティ。なぜハリウッドでないのか聞かれるたびに、“映画の本場ハリウッドにいる、という事実で陶酔、満足してしまいそうだったから。俺は映画を撮るために来ているんだ”と答えたという。事実、在学中からショートフィルムではなく、長編にもトライする。

「でも、撮影が長引くほどに、さまざまなトラブルが起こって。意気込みと期待と情熱を賭けていたその長編作品は途中で頓挫。仲間も空中分解してしまいました。これはすごくショックでした。あまりに落ち込んで、映画を学びに、映画を撮りに来たのに、映画から距離を置いた。音楽も好きだったので、ロックバンドを組んだりして時間を浪費していました」

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そんな時、1本の電話が入る。

「母親からでした。父親がくも膜下出血で倒れたから、すぐに学校を辞めて帰国するようにと。青天の霹靂でした。そして、猛烈に後悔しました。こんな貴重な留学期間に、俺は何をしていたのだろうと」

帰国後は、父の看病をしたりバイトをしたり。そのうち、夢も希望を失い、部屋で三国志を読みふけり、日々が過ぎていった。

「父親は九死に一生を得て、少しずつ回復していきました。母親に命じられ、父親と毎日散歩しました。道すがら、父と話したのは映画談義。そう、幼い頃と同じです」

 

一緒に映画を観て、散歩をしてと静かな日々が続いたある日、もともと口数の少ない父親が言った。

「央、おまえ、アメリカに帰れ」。

 

中島央 1975年生まれ・東京都出身。サンフランシスコ州立大学映画学科卒業後、脚本家としてキャリアをスタート。前作、『Lily』ではロサンゼルス・ムービー・アワード2010長編映画部門HONARABLE MENTION、メキシコ国際映画祭2009シルバー・パーム・アワードなど数々の賞を受賞。最新作は、映画『シークレット・チルドレン』(2014年5月10日(土)より日本全国で公開中)

公式サイト: http://TheSecretChildren.com

作成者:ficjapan

(文:吉田瑞穂)

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