巨人V9戦士の年俸はあまりに安かった 堀内恒夫は26勝しても1800万円

 巨人、日本ハムで活躍した高橋一三氏が7月14日、多臓器不全のため、都内の病院で死去した。享年69歳だった。1965年、巨人に入団した高橋氏は、V9時代に大車輪の活躍。左のエースだった。

 巨人の9年連続日本一(1965年から1973年まで)という記録は、空前絶後となるだろう。だが、選手の年俸は驚くほど安かった。「選手名鑑研究家」で、ライターのシエ藤が当時の「選手名鑑」などを元に振り返る。

 高橋一三の存在なしに、巨人のV9はなかっただろう。王貞治、長嶋茂雄のONコンビが目立つが、投手は堀内恒夫、高橋一三の2枚看板がチームを支えていた。事実、V9時代の65年から73年にかけて、堀内はチーム1位の129勝、高橋は2位の102勝を挙げ、2人で全勝利数の3分の1を稼いでいた。

 高橋が“左のエース”と呼ばれたように、“巨人のエース”は堀内と認識されていた。実際、堀内はV9時代にON以外で唯一、セ・リーグMVPを獲得しており、日本シリーズでも2度のMVPに輝いている。通算勝利数でも、203勝の堀内が167勝の高橋を大きく引き離している。

 だが、高橋が堀内に勝った点もある。シーズン最高年俸額だ。昭和の野球界において、年俸はなかなか上がらないものだった。特に、V9時代の巨人に顕著な傾向だった。
 たとえば、1972年の堀内は48試合に登板し、26完投を挙げ、26勝9敗という抜群の成績を残し、MVPを獲得。しかし、オフの契約更改では、年俸1460万円(推定。以下同)から1800万円に上がっただけ。わずか340万円しか昇給しなかった。

 V9が終わった74年に長嶋茂雄が引退。翌年、監督に就任すると、球団史上初の最下位に陥る。すると、そのオフ、高橋は張本勲との交換トレードで日本ハムに移籍する。
 この時点で、巨人における堀内と高橋の2枚看板が解消される。翌76年の選手年俸を見てみると、筆頭は王貞治(巨人)の5260万円。巨人のエース・堀内は1020万円で、日本ハムに移ったばかりの高橋は920万円である。V9時代の貢献度を考えた場合、この金額はかなり低い。
 同年の他球団のエースに目を移すと、わかりやすい。以下を見てほしい。

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 いずれも2人を上回っているのだ。当時は1年大活躍しても、「実績がない」と今のような大幅アップが難しかった時代。チームの低迷を理由にアップ幅を抑えられた選手も多々いた。年俸において、現代よりも実績やチームの成績が重視されていた……はずだ。
 
 この定説に従えば、堀内や高橋はどの投手よりも年俸が上で良いはずだが、現実は違っていた。
 75年終了時点で、星野は入団7年で84勝だったが、堀内は入団10年で158勝、高橋は入団11年で110勝を挙げている。たしかに、74、75年の過去2年では、星野32勝、堀内29勝、高橋8勝だったが、当時の契約更改でモノを言った“実績”を考えれば、ここまで年俸で大きく差が開くのは理不尽とすら言える。いかに、当時の2人の年俸が抑えられていたかわかるだろう。
 ちなみに、ほかのV9戦士も決して高い金額ではなかった。76年の年俸は柴田勲1260万円、土井正三1200万円、末次利光920万円、高田繁730万円だ。

 この後、堀内は視力低下の影響もあり、V9時代のような投球が影を潜め、年俸が思うように上がらなくなる。78年に自身最後の2ケタ勝利を挙げると、79年の年俸は1860万円と過去最高額をマーク。しかし、翌年はまた下落。コーチ兼任となった81年からのラスト3年は登板機会が少なく、計2勝しか挙げていないものの、1320万円、1560万円、1800万円と微増。コーチ兼任料も含まれた額のためにアップしていたと思われるが、203勝を挙げた大エースの年俸とは思えない。

 一方の高橋は不振や故障があり、日本ハム移籍後、年俸は下落するばかりだった。しかし、81年に14勝を挙げ、日本ハムを初優勝に導くと、年俸は1200万円から2160万円に跳ね上がった。これが、高橋一三の選手生活における最高年俸となり、堀内を抜いた。

 80年代に入り、各選手の年俸は徐々に上昇するようになる。V9時代に全盛期を迎え、以降は衰えを見せた堀内は、プロ野球史に残るほど成績と年俸が釣り合わなかった選手だと言えるだろう。

(文:シエ藤)

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