ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

vol.7 3月11日、仙台、真っ暗な東京

AVメーカーハマジムで働いている、岩淵弘樹です。週間で連載していたこちらの更新がだいぶ空いてしまいました。新作のドキュメンタリー映画『モッシュピット』の編集、公開に走り回っておりました。

『モッシュピット』については、霜田編集長がご自分の思いを書いてくださったり、チェリーラジオという番組にも出させていただいたり、様々な形で取り上げていただきました。ぜひご覧ください。

『モッシュピット』は東京都内での上映が一区切りし、地方上映をしています。お近くの場所で上映が決まりましたら、ぜひ見に来てください。さてさて、連載の続きです。派遣社員~無職~老人ホームと職を転々としていた20代。その終盤戦です。

松江哲明の「好きなことで食っていく」情熱

2011年の新年にドキュメンタリー監督の松江哲明さんから「新しい本棚を買ったんだけど設置の手伝いをしてほしい」と連絡があり、松江さん家で二人で本棚作りをしていたところ、「そういえば今度前野(健太)さんの弾き語りライブをまとめた『DV』って作品を自分で出すんだけど、イベントをしようと思ってるんだよね」と話を聞き、その場で「手伝わせてください!」とお願いをし、ライブハウスで一週間ライブと上映を行う『DV Fes 2011』のスタッフとなった。

松江さんは『あんにょんキムチ』『セキ☆ララ』『童貞。をプロデュース』『あんにょん由美香』『ライブテープ』と話題作を連発、インディーズ映画の旗手として注目を集め続け、『DV』は自分でDVDを制作、販売を行うことになっていた。後に出版される『映像作家サバイバル入門』で詳しく語られるが、松江さんはインディペンデントで好きなことを行いながら生計を成り立たせる可能性を追求し続けていた。

28歳。カメラを売った。好きなことがわからない自分

俺は『遭難フリーター』を作った後、文章や映像の仕事をフリーで行って食いつないでいたが、持続することも、成果を生むことも、大きな夢を持つことも出来なかった。

家賃の支払いが追いつかなくなり、親戚に借金をし、しまいにはビデオカメラも売った。流れ着くように介護業界に身を置き、老人ホームで正社員として働きながら、持っていたiPhoneで友人のバンドマン達の活動を撮影する日々だった。松江さんの活動を傍目で見ながら、「好きなことで食っていく」情熱とアイデアと現実的なお金の収支を鑑みると、どう考えても自分は独立して好きなことで食っていくことは無理だと思った。そもそも他人に胸を張って仕事にしたいくらい「好きなこと」が何なのか定まっていなかった。2011年、年齢は28歳だった。

八甲田山山頂で前野健太を撮る

『DV Fes 2011』最終日の打ち上げで、俺は酔っ払った勢いで松江さんにこんなことを言った。
「松江さんの撮った前野さんの『ファックミー』のPVより、俺が撮った方がいいものが出来る」
いま考えるとゾッとするが、先輩たちの深い懐に飛び込みたかったのだと思う。

「前野さん、俺にもPV撮らせてください! 雪山で歌う前野さんが撮りたいっす!」
松江さんは笑っていて、前野さんは「いいよ、撮ろう」と言ってくれた。

その1ヶ月後、前野さんを誘って青森県八甲田山の雪山に登り、PV撮影をした。少し歩くと吹雪で目の前が真っ白になる豪雪の中、凍りつく指先を震えさせながら、前野さんは何度もカメラの前で歌ってくれた。

前野健太『ファックミー』PV

こういう撮影をすると、お金がどうとか仕事がどうとか、マジぶっ飛ぶ。カメラを持つ手が震える。それは寒さではなく、前野さんの迫力を目の前で記録出来ていることに。

3月11日。

3月11日。震災が起こる。夜勤明けに家の近所でラーメンを食べている時だった。震源は東北、とだけネットのニュースで知り、仙台の実家に電話をかけたがつながらず、そのまま家に帰って眠った。

夜に起きて、少しずつ入ってくる情報を知って愕然とした。通っていた中学校のある閖上地域で200人が津波に流されたとか、仙台港が甚大な被害を受けているとか、知っている地名がどんどん出てくる。母親は沿岸部の乳製品の工場で働いている。マジかよ。実家に電話はつながらない。とにかく情報が入らない不安が一番つらかった。

その日の夜、元カノに連絡を取り、家に泊めてもらった。エロい気持ちはさらさら起きず、ただ誰かと一緒に過ごしていないと落ち着かなかった。

「カメラを回すなら今だよ」

翌日、東北出身のミュージシャンの友人とメールで家族の安否を確認していたところ、その友人から「岩淵くん、カメラを回すなら今だよ」と言われた。友人も14日に予定されていたライブを行うと言う。自分たちの出来ることをするしかない。友人のライブ撮影を行い、それからなるべくカメラを持って震災後の身の回りの出来事を撮影するようにした。

実家と連絡が取れた。母親の車は津波で流されてしまったが、家族は無事だった。なるべく早く実家に帰りたいと思い、二週間後に新幹線で新潟に行き、そこから陸路で仙台に帰った。見慣れた仙台駅前のアーケードや店舗は崩落寸前で営業を止め、ぎょうざの王将は炊き出しを行っていた。自分の生まれ育った街がボロボロになってしまったことはただただ悲しくて、持ってきたカメラで自分の足元を撮り続けた。

自分一人では沸き起こらないエネルギー

東京に戻ると、松江さんから連絡があった。計画停電が続く東京で撮影をする、この暗い東京を記録する、と。前野健太さんが街で歌い、近藤龍人さんが撮影し、山本タカアキさんが録音をする。

これは吉祥寺をワンカット撮影した『ライブテープ』という作品のチームだ。そのお手伝い(制作)という役割で自分も参加させてもらった。何度かのロケハンを行い、撮影は1日で行われた。朝日が昇り、撮影は終わり、早朝のファミレスで飯を食って解散した。

体の底から熱が止まらず、その日は帰っても眠れずに仕事に行った。一つの意思を共有し、何かを作る。自分一人では沸き起こらないエネルギーだった。その映画は『トーキョードリフター』というタイトルになり、暗い東京で歌う前野健太と、そこに映り込む街角の人や建物や暗闇や光も取り込んだ作品になった。完成した映画を見て、いろいろなことを考えた。俺は、このまま東京にいてもいいのか? 復興支援の続く実家に帰るべきじゃないのか?2011年5月、揺れ続ける東京の片隅で心中が落ち着くことはなかった。

(文:岩淵弘樹)

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