ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

第11回「フジテレビ物語(後編)」

不思議なもので、組織内に一人スターがいると、そのパワーが他の仲間たちにも伝播し、組織全体の能力の底上げを生むことがある。

2016年のプロ野球パシフィック・リーグにおける北海道日本ハムファイターズもそうだった。大谷翔平という1人のスーパースターの存在が、チーム全体の戦力を底上げし、奇跡のペナントレース大逆転劇につながったのだ。大谷一人の力で勝てたワケじゃない。

同様に、1980年代のフジテレビもそうだった。
「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズのもと、開局以来初の三冠王に――。だが、それはバラエティ班だけが活躍したからじゃない。
確かに、『オレたちひょうきん族』をはじめ、『なるほど!ザ・ワールド』や『笑っていいとも!』など、80年代にスタートしたバラエティ番組がフジの勢いをけん引したのは事実だ。でも、それだけで三冠王は取れない。ドラマや情報番組など、多ジャンルにわたる視聴率の底上げがあったからである。

そんな局のパワーは、当初「楽しくなければ~」のキャッチフレーズに相応しくないといわれた、あの部署にも伝播した。
フジテレビ報道局である。

世紀のスクープ

時に、1985年8月12日――。
その日、午後6時過ぎに羽田空港を離陸した日本航空123便は、相模湾上空で制御不能となり、群馬県の御巣鷹の尾根へ墜落した。
世にいう「日航ジャンボ機墜落事故」である。

時事通信から第一報が入ったのが、午後7時13分。それを受けてマスコミ各社は事故現場へ急行した。もちろんフジの報道班も車を群馬方面へ走らせた。その中に、入社1年目の山口真サンもいた。

だが、真夜中ということもあり、各社とも正確な墜落現場を特定できない。その辺りの状況は、横山秀夫サンの小説『クライマーズ・ハイ』にも詳しい。
そんな中、フジの山口サンは賭けに出る。ある情報を頼りに、先行して一人、重い機材を担いで道なき道を登り始めたのだ。そして翌13日午前9時、事故現場に遭遇する。報道陣で一番乗りだった。

午前11時31分、山口サンは、自衛隊員による奇跡の生存者救助の様子を『FNNニュースレポート11:30』内で生リポート。一介の新人によるフジの独占スクープだった。

その映像は全世界へ配信され、フジは新聞協会賞を受賞する。

ニュース戦争の先駆けと逸見政孝

この時期、フジテレビの報道局は、前年秋に民放初の夕方1時間のニュース番組『FNNスーパータイム』を始めたばかりだった。

その番組、タイトルから「ニュース」の文字を外したことで、当時大いに話題になった。鹿内春雄議長の「やわらかいニュース番組を」という指示を受けてのものである。
メインアンカーに逸見政孝アナ、アシスタントに幸田シャーミン。2人のくだけた進行ぶりも評判となり、視聴率は上昇。これを機に、夕方のニュース戦争が勃発する。
さらに、このスタイルを真似たのが、翌85年10月スタートのテレビ朝日『ニュースステーション』だった。

ちなみに、逸見アナは85年4月にスタートした『夕やけニャンニャン』の中で、ニュースを紹介するミニコーナーに中継で登場。軽妙なアドリブのやりとりで一躍人気を博し、その勢いで88年フリーに転じる。そして国民的人気司会者として一世を風靡したのは承知の通りである。
だが、93年9月に突然のガン告白会見。その3ヶ月後のクリスマスの日に他界。享年48。告別式でビートたけしは人目もはばからず号泣したという。

春雄チルドレンたち

かつて、「春雄チルドレン」と呼ばれる人たちがいた。
フジテレビの入社試験で鹿内春雄サン自らが最終面接に立ち会い、そのお眼鏡に適って入社した世代のことである。真偽は定かじゃないが、アナウンサー志望の河野景子サンが「君は処女かね?」と春雄サンから聞かれ、臆することなく「違います」と答え、合格した逸話がある。

そんな春雄チルドレンたちには1つの共通点がある。それは――テレビ局の枠に収まりきれないこと。既に飛び出した人もいるが、例えば、亀山千広サン、大多亮サン、小牧次郎サン、河合真也サン、吉田正樹サン、石原隆サン、福原伸治サン、中井美穂サン、片岡飛鳥サン、八木亜希子サン――ほら、みんなちょっと変わってるでしょ。

そんな彼らは、80年代中盤以降、フジテレビに新たな変革をもたらす。

『私をスキーに連れてって』の誕生

当時の春雄体制――フジテレビが偉かったのは、彼ら若い“春雄チルドレン”たちに、積極的に予算と権限を与えたことだった。
例えば、80年代後半のバブル時代にスキーブームをもたらした映画『私をスキーに連れてって』もそう。かの作品は、20代の小牧次郎サンや石原隆サンが決裁権を持っていたのである。
当時、馬場康夫監督は、まだ日立の宣伝部に所属する一介のサラリーマン。アマチュアで映画を作った経験はあるものの、映画界の実績は何もなかった。だが、小牧サンや石原サンは、馬場監督が話すスキー映画の企画を純粋に面白いと感じ、億単位の予算を決済したのである。

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そう、ホイチョイ・ムービーは、実績やキャリアを求める旧来の映画界の慣習では世に出ることはなかった。フジテレビの若き感性に見出されたのである。

そんな春雄チルドレンたちに、フジは新たなフロンティアを用意した。
『JOCX-TV2』である。

『JOCX-TV2』と深夜の編成部長

1987年夏、フジテレビ初の24時間特番『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』が平均視聴率19.9%と大成功を収める。
この時、特に注目を浴びたのが、深夜の視聴率の高さだった。その時代、平日深夜といえばB級映画の再放送くらいしか需要がないと思われており、それは一筋の光明だった。
そこで、フジは同年10月からテレビ界初の24時間放送に踏み切る。NHKをも出し抜く偉業だった。

かくして、『JOCX-TV2』が始まる。それは、新たに開拓された深夜帯の呼び名だった。
そしてフジは、この時間帯を20代の若手社員たちに丸投げする。いわゆる“深夜の編成部長”がここに誕生する。

その仕事は痛快だ。深夜の編成部長は、まず1年分の制作予算を“本物の編成部長”から託される。そこから先は、企画からスタッフィングまで自由にやっていいルール。先輩や上司は一切口出しできない。ちなみに、先の小牧次郎サンは2代目深夜の編成部長、石原隆サンは3代目深夜の編成部長となる。

かくして、まるでカンブリア紀の大爆発のように、自由で独創的な番組たちが登場する。

カノッサ、カルトQ、やっぱり猫が好き……

『JOCX-TV2』――別名「フジテレビの深夜黄金時代」。論より証拠。その代表的な番組たちを、年代を追って紹介しよう。

『読切美人』(87年10月~88年9月)
畑中葉子や水島裕子ら今でいうセクシー女優が、ポルノ小説を朗読。超深夜帯の28時半スタートながら、初回視聴率は大健闘の1.2%だった。

『マーケティング天国』(88年10月~90年3月)
原案・ホイチョイ・プロダクションズ、構成・小山薫堂。週末の映画動員ランキングやテレビ視聴率の最新チャートを月曜夜の生放送で紹介。城ヶ崎アナによる、やや斜に構えたコメントが秀逸だった。

『やっぱり猫が好き』(88年10月~90年3月)
三谷幸喜サンの出世作。浦安のマンションに住む3姉妹(もたいまさこ・室井滋・小林聡美)のアドリブとも台詞ともつかぬシットコム。

『夢で逢えたら』(88年10月~89年3月)
ダウンタウンやウッチャンナンチャンらお笑い第三世代が共演。ショートコントと連続もので構成。シュールな笑いが秀逸だった。後に23時台へ。

『IQエンジン』(89年1月~89年9月)
難解なクイズを第三舞台のメンバーがドラマ形式で出題。解答者なしで視聴者に考えてもらう斬新なコンセプトだった。

『奇妙な出来事』(89年10月~90年3月)
後の『世にも奇妙な物語』の前身番組。当時のストーリーテラーは斉木しげる。企画・石原隆、脚本・君塚良一ほか。

『TV PLUS PRESS』(90年4月~91年3月)
その週に起きたニュースを、クレーンシートの古舘伊知郎サンが、粋なコメントを交えつつ実況風に伝える新タイプのニュースショー。後の『報道ステーション』より100倍面白かった。

『カノッサの屈辱』(90年4月~91年3月)
原案・ホイチョイ・プロダクションズ、構成・小山薫堂、演出・田中経一。仲谷昇サン演ずる歴史学者が「デパート大航海時代」や「幕末ビール維新」といったテーマで、現代の商品史を“歴史の講義風”に説いた。

『19xx』(90年10月~91年9月)
毎回、1つの年を取り上げ、当時のヒット曲を背景に、ひたすら世相映像を流すシンプルな構成が持ち味。

『アインシュタイン』(90年10月~91年9月)
企画・小牧次郎、構成・渡辺健一。城ヶ崎アナらがサイバー系の衣装に身を包み、CGをバックに難解な科学ニュースを伝えた。演出の福原伸治サンはこの2年後に『ウゴウゴルーガ』を手掛ける。

『TVブックメーカー』(91年4月~92年3月)
イギリスのブックメーカーのスタイルを参考にしたテレビ版トトカルチョ。第1回は自らの番組視聴率を予想した。オッズメーカーは前田武彦サン。

『地理B』(91年4月~91年9月)
毎回、1つの国家をテーマに、その国の位置や歴史などの要素を、ひたすらクールに見せる謎の番組だった。

『アメリカの夜』(91年10月~92年3月)
映画表現の勉強を技術面から学ぶ、石原隆サン肝いりの番組。ホスト役に宝田明サン、演出に本広克行サン。第1回のテーマは「パン」だった。

『カルトQ』(91年10月~93年3月)
予選を勝ち抜いたツワモノ達が、「ファミリーレストラン」や「ブランド」などをテーマに、カルトなクイズに挑戦。司会はうじきつよしと中村江里子アナ。後にプライム帯へ。

『悪いこと』(92年4月~92年9月)
日常に潜む“悪いこと”を描いたオムニバスドラマ。バッド・エンドが持ち味だった。演出・落合正幸ほか、脚本・戸田山雅司ほか。爆笑問題の太田サンが脚本に参加したことでも知られる。

『皆殺しの數學』(92年4月~92年9月)
数学家の秋山サンが講師となり、財産分与問題など身の回りの数学に関わる確率・統計を説いた。付いてこられない視聴者は容赦なく見捨てた。

『征服王』(92年10月~93年3月)
星護サン演出の究極の無駄使い番組。スタジオに15×18のマス目の戦場セットを用意。2組のプレイヤーが競った。ルールが難解過ぎたのが惜しい。

『5年後』(92年10月~93年3月)
1997年の未来から現代を振り返る設定で、テーマごとに92年から5年間の歴史(未来)を見せる凝った作りだった。構成・小山薫堂。

『たほいや』(93年4月~93年9月)
5人の出演者の1人が、広辞苑の中から難解な言葉を1つ選び、あとの4人がそれらしい解答をつけるルール。三谷幸喜サンもよく出演した。

『とぶくすり』(93年4月~93年9月)
『めちゃイケ』の源流。ナインティナイン、よゐこ、極楽とんぼらが出演。リアリティある設定のコントが秀逸だった。

『音効さん』(93年10月~94年3月)
音響効果を駆使した、音の実験番組。演出・片岡K。同じ絵でBGMを変えて違う話にしたりと、意欲作だった。

『音楽の正体』(93年10月~94年3月)
近藤サト司会で、ジャンルを問わず、作曲法の理論などを解説。ユーミンの歌が頻繁に登場した。

『文學ト云フ事』(94年4月~94年10月)
片岡Kサンの最高傑作。文学作品をあたかも映画の予告編のように紹介した。しかし、あまりに予算をかけ過ぎて大赤字に……。

『3番テーブルの客』(96年10月~97年3月)
三谷幸喜サンの同一脚本を、鈴木雅之、星護、木梨憲武ら、毎回別々の監督が演出した実験的ドラマ。

『一人ごっつ』(96年10月~97年3月)
ダウンタウンの松本人志が初めてピンで挑んだ初レギュラー。武道館イベント『松風’95』で見せた「写真で一言」や「全国お笑い共通一次試験」など珠玉の企画が並んだ。

――と、これらはほんの一部。
いかがだろう。百花繚乱とは、まさにこのことである。

深夜は未来への投資

『JOCX-TV2』は、その後、何度か名称を変えながら存続するが、徐々に独創的な番組は減少する。そして1996年に完全に姿を消した。
代わって深夜は、“行政枠”と呼ばれる芸能プロダクション色の強い枠へと変貌する。いわゆるロケ・バラエティの隆盛がここに始まる。
そう、『JOCX-TV2』的な番組は独創的で面白いが、企画の当たり外れが大きい。視聴率も安定しない。一方、タレント主導のロケ・バラエティは、新鮮味は薄いが、内容・数字とも安定している。芸能プロダクションへの“貸し”もできる。

でも――それでいいのだろうか。
実は、『JOCX-TV2』は大きな資産を生んだ。それは“人”である。先の番組一覧を見ても分かる通り、作り手においては、ホイチョイ・プロダクションズをはじめ、三谷幸喜サン、小山薫堂サン、本広克行サン、星護サン、田中経一サン、片岡Kサン、君塚良一サン等々、後に名を馳せる若き作り手たちを世に送り出した。

仮に同枠がなければ、三谷サンは『振り返れば奴がいる』の脚本に抜擢されず、そうなると、後に『古畑任三郎』も『王様のレストラン』も書いていない。本広克行サンも『お金がない!』で織田裕二と出会わず、あの『踊る大捜査線』の企画も流れていたかもしれないのだ。

80年代、ドラマは若者たちから遠かった

話を80年代に戻そう。
今度はドラマの話である。実は80年代のテレビドラマは、若者たちからちょっと離れた存在だった。
当時のトレンドリーダーは『JJ」や『POPEYE』などの雑誌であり、六本木の音楽の聖地『WAVE』であり、渋谷の『パルコ』だった。テレビドラマは先の倉本聰サンや山田太一サンら作家性の強い作品か、昔ながらの刑事モノや時代劇、アイドルの学園ドラマや大映ドラマで占められ、およそ若者たちのトレンドとは無縁だった。

そこへ、86年7月にTBSが、初めて等身大の若者向けのドラマ『男女7人夏物語』を放映する。続いて映画界でも、87年11月に『私をスキーに連れてって』が封切られる。フジテレビのドラマ班の山田良明サンと大多亮サンは、これらの作品に大いに刺激を受けた。
「これからは若い人たち、とりわけ20代の女性たちに向けてテレビドラマを作るべきだ!」

かくして88年1月クール、月曜9時、通称“ゲツク”枠で『君の瞳をタイホする!』が始まる。
トレンディドラマ時代の幕開けである。

バブルの申し子、トレンディドラマ

ドラマ『君の瞳をタイホする!』が画期的だったのは、刑事ドラマでありながら、話の主軸は若者たちのオシャレな恋愛ゲームにあったこと。
というのも、当時のフジは恋愛ドラマの実績がないので、編成部に企画を通すには、外側だけでも刑事ドラマにせざるを得なかったのだ。タイトルも苦肉の策だった。

ところが――同ドラマは始まると、そのオシャレな仕様に20代の女性たちが飛びつく。主題歌は久保田利伸の「You were mine」。キャストは陣内孝則、柳葉敏郎、三上博史、浅野ゆう子ら20代の役者で固められ、彼らはDCブランドに身を包み、渋谷のオシャレなスポットに出没した。

かくしてトレンディドラマは、まさに日本中がバブルに浮かれていた時代と重なるように、他局も巻き込みテレビ界を席巻する。

W浅野とヤングシナリオ大賞

いわゆるW浅野の『抱きしめたい!』は、88年7月クールに登場する。当時、浅野温子と浅野ゆう子は20代後半。恋に仕事に友情にカッコよく生きる2人は、まさに同年代の女性たちの憧れのライフスタイルを体現した。
演出は、フジテレビで最もダンディといわれる男、河毛俊作サン。音楽に当時無名のピチカート・ファイヴを起用したり、劇伴に洋楽を使ったりと、スタイリッシュな手法が際立った。

その後、トレンディドラマは、ヤングシナリオ大賞出身の野島伸司サンのデビュー作『君が嘘をついた』や、同じく第1回受賞者の坂元裕二サンの『同・級・生』(原作・柴門ふみ)など、若き脚本家たちを積極的に登用するが、90年4月の『恋のパラダイス』で突如ブームは終焉する。わずか2年半の命だった。

確かにトレンディドラマは若者たちを惹きつけた。だが、そこに描かれる世界は表面的で、心情的な描写も浅かった。
気が付けばバブルの季節は終わり、時代は集団恋愛劇から、一人の異性を愛する“純愛”路線に移ろうとしていた。

1991年1月、あの歴史的ドラマが登場する。

『東京ラブストーリー』以前と、以後

よく、ドラマ好きの人たちはこんな言い方をする。
「『東京ラブストーリー』以前と、以後」
どういう意味か。それは、かの作品の登場で、ドラマのマーケットが一気に拡大したからである。同ドラマの最終回の視聴率はなんと32.3%だった。

『東ラブ』の最も偉大な発明は、劇伴で主題歌をかけたことだといわれる。ドラマのクライマックス、カンチとリカの切ないシーンになると、小田和正の『ラブ・ストーリーは突然に』の前奏がチャカチャーン♪とかかり、グッと盛り上がる。

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それまでドラマの劇伴はインストゥルメンタルが多く、主題歌がそのままかかることはなかった。その点で『東ラブ』は革新的だった。
発案者は大多亮プロデューサーである。実は以前も大多サンは、1つ前のクールの『すてきな片想い』の際、劇伴を主題歌にするよう、演出の河毛俊作サンに提案している。しかし河毛サンは洋楽を使うと主張。2人は決裂し、以後2年間、口をきかなかったという。

確かに、演出の技法的には、主題歌の劇伴はダサいかもしれない。でも、実際盛り上がるし、何より分かりやすい。そして最も大事なのは――多くの視聴者はベタな演出が好きなのだ。

すべては『東京ラブストーリー』から始まった

『東ラブ』以降、連ドラは一気にマーケットを拡大、人々の生活に深く関わるようになった。テレビ誌は毎週のようにドラマの舞台裏を記事にし、人々は放送の翌日、学校や会社で昨夜のドラマの感想を言い合った。

一方、マーケットが拡大することで、作り手の側にもチャレンジできる余裕ができた。新人の脚本家や演出家が起用され、舞台設定も多岐にわたった。そして何より――人気俳優や人気女優が次々に誕生した。

90年代、ドラマの主題歌はヒットチャートを席巻してミリオンセラーとなった。劇中に登場した小道具やファッションは、翌日には店頭から姿を消した。
その全ては、『東京ラブストーリー』から始まったのだ。

女子アナはフジテレビの発明

ここで、ちょっと視点を変えて、いわゆる「女子アナ」について考察してみたい。
「女子アナ」――考えてみれば不思議な言葉である。「女性アナ」でも「女子アナウンサー」でもなく、「女子アナ」。

意外に思われるかもしれないが、その言葉、さほど歴史があるわけではない。初めて使われたのは、1987年7月にフジテレビから出版された『アナ本』である。その中の“花の女子アナ14人衆”という記述がそう。驚くべきことに、それ以前にメディアで「女子アナ」という言葉が使われたことは一度もなかった。

その本には、『なるほど!ザ・ワールド』の益田由美アナをはじめ、『オレたちひょうきん族』で人気を博した3人の“ひょうきんアナ”たち、さらには、吉崎典子アナや永六輔サンのお嬢さんの永麻理アナ、阿部知代アナらの失敗談が面白おかしく書かれている。ちなみに、この本が出版された年に入社するのが、かの中井美穂アナである。

そして翌年、フジに三人娘(八木亜希子アナ、河野景子アナ、有賀さつきアナ)が入社して、女子アナブームは一気に盛り上がる。
それは他局にも波及し、現在に至るまで、まるでテレビタレントのような「女子アナ」が花形職業になる。

「女子アナ」もまた、フジテレビが火付け役だったのである。

カリスマの死去

1988年4月、フジサンケイグループの鹿内春雄議長は、ゴルフ中に体調を崩すと、大事を取って入院する。その顔は妙にどす黒かったが、周囲はゴルフ焼けと見ていた。本人もベッドの上で翌月にカラー化を控えた産経新聞のテスト版を見てダメ出しする余裕があった。

だが、入院から3日後、容体が急変する。黄疸症状が現れ、肝機能の数値はみるみる悪化。春雄は集中治療室に移された。
4日目、こん睡状態に陥る。そして一度も目覚めることなく、入院から6日目の午後、息を引き取った。
鹿内春雄、享年42。死因は持病の肝炎だった。

田園調布の春雄邸で行われた仮通夜には、グループの幹部が続々と詰めかけた。日枝局長は春雄の亡骸の横に崩れ落ちるように座り込むと、人目もはばからず号泣したという。

フジテレビは精神的支柱を失った。70年代、どん底だったフジテレビを業界の盟主へと導いたのは、間違いなく若きカリスマ――春雄だった。

だが、父親の信隆に感傷に浸っている時間はなかった。

佐藤宏明から鹿内宏明へ

鹿内春雄議長の突然の死から11日後、父・信隆は娘婿の佐藤宏明氏を養子縁組して鹿内姓にすると、勤め先の日本興業銀行を退職させた。そして自らフジサンケイグループ議長に復帰し、義理の息子を議長代理の職に就かせた。

鹿内宏明、時に42歳。奇しくも春雄前議長と同い年だった。2人の誕生日はわずか11日違いである。だが、その経歴は対照的だ。
東大法学部を卒業後、日本興業銀行に入行した宏明は、エリート銀行員の道を歩んでいた。72年に信隆の次女と結婚するも、鹿内家とは距離を置いた。彼は将来の興銀社長を嘱望されていた。

だが、鹿内宏明となった彼の運命は、この時から大きく舵を切る。

三代目の誕生、そして失脚

宏明が議長代理となって2年半が過ぎた1990年10月、鹿内信隆議長が死去。末期のすい臓ガンだった。享年78。
議長の座は鹿内家の三代目に引き継がれた。だが、銀行畑で育った新議長と、フジの幹部たちとはソリが合わなかった。

1992年7月21日、産経新聞社の取締役会で宏明議長解任の緊急動議が発議される。賛成16人・反対3人――圧倒的だった。

閉会が宣言され、宏明を一人残して引き上げる役員たち。その中に、フジテレビの日枝久社長もいた。彼は産経新聞の非常勤の取締役でもあった。
「ひえちゃん、一体どういうことなんだ?」
議長の声に振り返る日枝社長。その口元にはわずかに笑みが浮かんでいたという。

翌日、宏明はフジサンケイグループ議長の座から失脚する。
ここに、鹿内家によるフジテレビ支配は終焉した。春雄の死から、わずか4年3ヶ月後のことだった。

宴の終わり

ここから先の話はあまり長くない。
その後、フジテレビは日枝久社長体制へと移行する。だが、その頃になると、かつて80年代の春雄時代に立ち上げた番組たちが、徐々に金属疲労を見せ始めていた。
既に、『ひょうきん族』は89年10月に姿を消しており、『なるほど!ザ・ワールド』も往年の勢いは失われていた。『笑っていいとも!』に至ってはマンネリに陥り、いつ打ち切られてもおかしくない状況だった。

93年、フジテレビは全日視聴率で日本テレビに並ばれる。翌94年には、ゴールデンとプライムでも日テレに並ばれ、全日は抜かれる。ここに12年間続いた三冠王時代は終焉する。95年、日テレが単独で三冠王となると、遂にフジは無冠へ転落した。
かつて独創的な番組であふれた『JOCX-TV2』も、気が付けばタレントの行政枠が増え、風前の灯火だった。

フジテレビはこのまま転落していくのか。
だが、そこへ救世主が現れる。
SMAPである。

アイドル冬の時代

話は少しさかのぼる。
1992年4月、フジテレビの土曜23時半枠で『夢がMORI MORI』が始まった。レギュラー出演者は、森脇健児と森口博子、それに半年前にCDデビューを果たしたSMAPである。
当時はアイドル冬の時代。SMAPのデビュー曲は2位に留まった。ちなみに、少年隊以降の【バンド形式を除く】ジャニーズグループで、今日至るまでデビュー曲で1位が取れなかったのはSMAPだけである。

そんな向かい風の中、担当マネージャーの飯島三智サンは、バラエティ番組に活路を見いだす。フジテレビに売り込みをかけ、その時、新番組の『夢MORI』を立ち上げようとしていた荒井昭博サンと出会った。決め手はメンバーの一人、森且行だった。同番組は出演者の名字に「森」が入るのがお約束だったのだ。

SMAPの才能の開花

『夢MORI』で、SMAPは新たな才能を開花させる。
それは、コントの「音松くん」のコーナーだった。彼らが演じる6人兄弟はアイドルらしからぬボケとツッコミを披露し、SMAPの知名度と人気は一気に上昇する。思えば、『おそ松さん』の原点がここにあった。

次に、飯島マネージャーは、当時としては珍しい、グループの“バラ売り”を仕掛けた。
まず先陣を切って92年10月、フジの月9ドラマ『二十歳の約束』に稲垣吾郎が主演する。次いで93年10月の『あすなろ白書』へ木村拓哉が出演、「俺じゃダメか?」の台詞で一躍人気を博した。
ドラマだけじゃない。先の『夢MORI』の荒井サンが『笑っていいとも!』も担当していたことから、94年4月、まず中居正広と香取慎吾が同番組の新レギュラーに抜擢される。そして翌年、これに草彅剛も加わる。

かくして、『いいとも』は曜日レギュラーのSMAPを中心に大幅にリニューアルされ、見事復活する。そして2014年3月まで続く大長寿番組になったのは承知の通りである。

スマスマとロンバケ

この当時、フジテレビとSMAPは、まるで共鳴し合うかのような関係だった。
そしていよいよ、その真打ちともいうべき番組が登場する。

1996年4月15日、月曜夜10時枠で『SMAP×SMAP』がスタート。それは、まさにSMAPの集大成だった。歌あり、コントあり、ドキュメントあり――。初回視聴率は23.5%と好発進。その後も同番組は度々30%超えを連発して、やがて国民的番組と呼ばれるようになる。

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奇しくも、『スマスマ』が口火を切った同じ日、その前枠の“月9”では木村拓哉・山口智子主演のドラマ『ロングバケーション』が始まった。
脚本・北川悦吏子。アラサーの売れないモデルと6歳年下のピアニストの青年の奇妙な同居から始まる切ないラブストーリー。最終回は驚異の視聴率36.7%。同ドラマを今も連ドラの最高傑作に挙げる声は多い。

『踊る』、そしてお台場へ

1996年6月、お台場に1つのビルが竣工する。翌97年3月に移転予定のフジテレビの新しい本社ビルである。
とはいえ、当時のお台場はゆりかもめとデックス東京ビーチがあるだけの広大な更地。流行を発信するテレビ局の本社としては僻地ともいえる場所だった。
だが、時を同じくして、1つのドラマの企画が立ち上がる。
『踊る大捜査線』である。

ドラマの舞台はお台場にある湾岸署。主演・織田裕二、脚本・君塚良一、プロデュース・亀山千広。演出は織田裕二の推薦で、『お金がない!』のサード・ディレクターだった本広克行サンが抜擢された。「サラリーマン刑事」というドラマの基本コンセプトは石原隆サンが考えた。

撮影は、フジテレビが移転してくる前――まだ人がほとんどいない冬のお台場で行われた。
97年1月7日、放映された第1話の視聴率は18.7%。まだ20%超えのドラマが多かった時代、決して高い数字ではなかった。
だが、同ドラマは口コミで徐々に話題となる。亀山プロデューサーは上層部に掛け合い、最終回で20%を超えたら映画化してよいとの約束を取り付ける。果たして最終回――23.1%。

『踊る~』の映画化が決まった。

お台場移転と『踊る2』の大ヒット

1997年3月、フジテレビの本社がお台場へ移転される。
そして、これと呼応するように、終了したばかりの『踊る大捜査線』の人気にも火が着いた。

97年末と98年秋に放映された2本のスペシャルドラマは、いずれも25%台の高視聴率。内田有紀主演で作られたスピンオフドラマも24.9%と健闘した。
そして――満を持して98年10月31日。かねてからの約束通り、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』が封切られる。興行収入101億円の大ヒット。

さらに、その5年後の2003年7月19日――映画第2弾となる『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が公開され、興行収入は前作を大きく上回る173.5億円の歴史的ヒット。
これは――今もって日本の実写邦画の歴代興行収入1位である。

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『踊る~』シリーズは社会現象となった。
そして、その舞台であるお台場も、気が付けば都内屈指の人気スポットになっていた。フジテレビはお台場のランドマークとなり、球体展望室は観光名所になった。

そして、この勢いのまま2004年、フジは11年ぶりに日テレから三冠王を奪還する。再びテレビ界の盟主に返り咲いたのである。

第2次三冠王時代と地デジ化

フジテレビの三冠王は、04年から10年まで7年間続いた。
その間、2005年2月にライブドアによるフジテレビ買収騒動が一時世間を騒がせるも、番組自体は安泰だった。影響といえば、05年4月クールの草彅剛主演ドラマのタイトルが、『ヒルズに恋して』から『恋におちたら〜僕の成功の秘密〜』に改題されたくらいである。
本当の刺客は、思わぬところからやってきた。

2011年7月24日、アナログ放送終了。地上波は完全地デジ化された。それと同時にテレビ朝日は5チャンネルへ、テレビ東京は7チャンネルへと移り、フジテレビは番組表で右端へと追いやられた。
そしてこの年、フジは7年間守り通した三冠王から陥落する。

そして今――時代は繰り返す

三冠から陥落したフジテレビはその後もずるずると後退を続け、今年――開局以来初の全日・ゴールデン・プライムの3部門で年間4位が見えてきた。
そして、これと共鳴するかのように、今年の年末をもってSMAPが解散する。
そう、1つの時代が終焉を迎えようとしている。

思えば、1970年代の終わりも似たような状況だった。あの頃、フジテレビは今と同じくどん底だった。そう、時代は繰り返す――。

え? ならばフジに再びカリスマが現れるのかって?
いや、それは少し違う。あの時、鹿内春雄の登場は1つのキッカケにはなったが、時代を変えたのは、フジの1人1人の社員であり、その志に共鳴した外部の仲間たちだった。中編の冒頭でも述べたが、歴史を変える一番の原動力は、1人の英雄の出現ではない。“機が熟す”ということだ。

もしかしたら、今こうしている間にも、フジテレビの水面下ではいくつもの新企画が、“その時”のために始動しているのかもしれない。
少なくとも、僕はそう思うようにしている。

だって、明けない夜など、ないのだから。

(文:指南役 イラスト:高田真弓)

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