ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

第13回「テレ朝の時代」

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テレビ朝日のドラマ『ドクターX~外科医・大門未知子~』が絶好調だ。
4シーズン目となる今作は、8話までの平均視聴率が21.3%(関東地区・以下同)。20%を割ったのは、わずかに2話の19.7%のみ。これは前3シリーズに引けを取らない堂々の数字だ。連ドラの視聴率が年々下がる昨今、いやはやすごい。

いくら巷で『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)が話題沸騰といっても――あちらは8話までの平均視聴率が13.1%。段違いだ。
そうそう、最近はほとんど話題にならない『相棒』(テレビ朝日系)だけど、こちらも8話終了時点で平均視聴率14.9%と、なんだかんだで堅調だ。

そう――10月に始まった連ドラは、今のところテレ朝が他局を引き離して視聴率1位・2位と絶好調なのだ。よほど『逃げ恥』が終盤爆上げしない限り、このままテレ朝がワンツーフィニッシュするだろう(『相棒』は来年3月まで)。

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かつてのドラマの王者たち

思えば、かつて1960年代から70年代にかけて、「ドラマのTBS」と呼ばれた時代があった。ヒットドラマの多くはTBSのドラマだったからだ。質量とも他局を圧倒していたので、いつしかそんな異名がついた。

その異名は、90年代になると、今度はフジテレビに引き継がれた。「ドラマのフジテレビ」――そう、連ドラ黄金時代の到来だ。
90年代初頭から2000年代半ばにかけて、フジは数々のヒットドラマを世に送り出した。『東京ラブストーリー』、『ひとつ屋根の下』、『古畑任三郎』、『ロングバケーション』、『踊る大捜査線』、『HERO』、『結婚できない男』――etc.

ドラマのテレ朝

だが、気が付けば、今やその位置にいるのは、前述のテレビ朝日である。
同局の強さの秘密は、その「シリーズ制」にあるといわれる。他局が1クール毎に新作を投入して、次第に企画が枯渇する中、『相棒』をはじめ、『ドクターX』、『科捜研の女』、『警視庁捜査一課9係』、『刑事7人』、『スペシャリスト』など、ヒットドラマをシリーズ化して放映しているので、大外しがないのだ。

そう、シリーズ制――。そのカラクリは、外部に『東映』という、確かな制作部門を持つ“相棒”がいるから出来ることなんですね。映画会社にして、テレ朝の大株主。昔から切っても切れない仲で、東映なくして今のテレ朝は存在しないほど。
例え、テレ朝内で人事異動があっても、制作を受け持つ東映が付いている限り、シリーズ作品に支障はないってワケ。その辺りの“相棒”の存在が、他局にないテレ朝の強み。そして、そんなシリーズ化の手法は、海の向こうのアメリカではむしろ定番なのだ。

テレビ離れが叫ばれ、視聴習慣が重要視される中――気が付けば、そんなテレ朝の手法が時代の空気に合っていたんですね。
今や「ドラマのテレ朝」の時代なのだ。

報道のテレ朝

そうそう、かつてTBSが“民放の雄”だった時代、同局は「報道のTBS」とも呼ばれていた。他局に先駆けて全国各地の地方局とニュース・ネットワーク(JNN)を結び、朝日新聞やNHKと肩を並べる報道体制を敷いたからだ。

だが、今やその肩書きはテレ朝にこそ相応しいだろう。なぜなら、同局の看板番組『報道ステーション』は、安定して視聴率二桁を稼ぐ、民放切ってのニュース番組だからだ。今年4月から、古舘伊知郎サンに代わって同局の富川悠太アナがメインキャスターに起用されたけど――視聴率は変わらない。番組に地力がある証しだろう。

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そう、今やテレ朝は「報道のテレ朝」といっても過言じゃないのだ。

スポーツのテレ朝

いや、それだけじゃない。スポーツの分野でも近年、テレ朝の活躍がやけに目立つ。
現在、サッカー日本代表チームは、2018年のロシア・ワールドカップのアジア最終予選の真っ最中だけど、ご存知の通り、その放映権を持つのはテレ朝だ。
同局は2001年にAFC(アジアサッカー連盟)と単独契約を結び、2016年の今年まで、アジア地区における日本代表チームの独占放映権を保有している。そのため、この最終予選をはじめ、オリンピックのアジア最終予選やアジアカップも独占放映できたというワケ。

え? なんでテレ朝だけそんなに美味しい思いが出来るのかって?
それは――“残り物には福がある”から。

元々、日テレはクラブチーム世界一を決めるトヨタカップ(現・FIFAクラブワールドカップ)の放映権を保有していて、TBSはJリーグの放映権、フジは欧州各国リーグの放映権を持っていたんですね。2001年当時、テレ朝に残された椅子はAFCしかなかったというワケ。しかも、日本は翌年の日韓W杯に自動出場できるので、予選は不参加。AFCが主催するアジア予選に、日本人は誰も注目してなかった。だから独占契約できたのだ。

そんな経緯で、今や僕らは毎度、松木安太郎サンの熱い解説を聞かされているという次第――。

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プロ野球からサッカーへ

思えば、かつて民放で長らくスポーツ中継をけん引したのは、日本テレビだった。開局時は力道山のプロレス中継で人気を博し、昭和30年代半ば以降は、プロ野球の巨人戦のナイター中継がドル箱になった。

ところが――2001年に巨人の長嶋監督が勇退し、オリックスのイチローが海の向こうで新人王を獲得すると――まるで1つの時代の終わりを告げるように、この年、ナイター中継の視聴率が過去最低に落ち込んだ。
そして06年にはその視聴率は一桁となり、近年、地上波から急速にプロ野球中継が激減したのは承知の通りである。

代わって、それと入れ替わるように台頭したのがサッカー中継だ。2002年の日韓W杯を契機に、日本代表戦は毎試合、高視聴率を連発する黄金カードに――。それを先導したのは、前述のAFCと単独契約を結んだテレビ朝日だったんですね。
そう、気が付けば、今や「スポーツのテレ朝」の時代でもあるのだ。

バラエティの日テレに対抗する

さて、ドラマ・報道・スポーツと、今や3つの分野で君臨するテレ朝――。
でも、その割には年間視聴率で2014年以降、日テレの三冠王が続いている。
どうして?
そのカラクリは簡単だ。「バラエティの日テレ」だからである。現状、プライムタイムで放送される番組の7割近くはバラエティ。自ずとバラエティを制す日テレが視聴率戦争も制しているというワケ。

だが、これもテレ朝は悲観することはない。
確かに日テレのバラエティは強いが、「タイムシフト視聴率」に目を転じると、少し違う風景が見えてくるのだ。

タイムシフト視聴率から見えるもの

タイムシフト視聴率とは、この10月からビデオリサーチ社が始めた指標で、放送から7日以内に視聴した数字である。一般にドラマが高く、バラエティは低くなりがちだ。現に、10月のタイムシフト上位10番組は全てドラマである。要は、バラエティは暇つぶしに生で見るけど、わざわざ録画してまでは見ないということだろう。

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そんな中、バラエティでランクインしているのは、14位の『アメトーーク!』と15位の『ブラタモリ』(NHK)、そして20位の『日曜もアメトーーク!』なのだ。なんと、あれだけ強い日テレのバラエティは、ベスト20位以内にも、30位以内にも1つも入っていない。

そう、視聴率では日テレのバラエティは強いけど、わざわざ録画してまで見たいバラエティとなると、ここでもテレ朝なのだ。

テレ朝の時代へ

いかがだろう。テレビ番組のカテゴリーを「ドラマ」「報道」「スポーツ」「バラエティ」の4つに大別すると、今やテレ朝は、この4分野とも時代の先頭を走っているように見える。

事実、年間の視聴率争いでも、3年連続「三冠王」を目指す日テレに対して、ここへきてテレ朝がかなり追い上げているのだ。この後、『ドクターX』がさらに数字を上げて、W杯のアジア最終予選も白熱して、トランプ旋風などでニュースも盛り上がって、『アメトーーク!』も日曜日が健闘すれば――もしかしたら、もしかするかもしれない。

そう、時代はテレ朝。
一体、テレビ朝日とはどういう局なのか。どんな道を辿り、現在の地位を築き上げたのか。
少々前置きが長くなったが、ここからが今回の本題である。

日本初の教育番組専門局

現在のテレ朝を知るには、その歴史からひも解くのがいいだろう。
同局が開局したのは1959年2月である。フジテレビより1カ月早く、東京キー局の民放としては3番目。だが、当時の社名は今と違って『日本教育テレビ』といった。略称・NET(Nippon Educational Television)。
なんと、民放初の教育番組専門局として誕生したのだ。

教育番組専門局とは、その名の通り、教育番組を専門に放送するテレビ局のこと。要は、Eテレと同じだ。郵政省(現・総務省)のお達しで「教育番組を50%以上、教養番組を30%以上放送すること」が同局の放送免許交付の条件だった。

主な株主は日本経済新聞社の子会社の『日本短波放送』を筆頭に、映画会社の東映や出版社の旺文社など。この時点で、現在のテレ朝の筆頭株主である朝日新聞は含まれていなかった。

かつて電波はマジメだった

それにしても――「なんで教育番組専門局を?」と思ってしまう。
今でこそ民放テレビは娯楽の王様として親しまれているが、実は黎明期のテレビ界、もっといえばラジオも含めた放送界は、電波は「公共の財産」という意識が今よりずっと強かったんですね。それゆえ、教育や宗教といった営利とは別の目的で放送局が設立されるケースも少なくなかった。

例えば、ラジオ局の文化放送は、元々は聖パウロ修道会が布教の一環で設立した局である。東京FMも東海大学が発起人で、元はといえば通信教育を目的に設立されたものだった。覚えている人もいると思うけど、90年代の終わりごろまで、東京FMは夕方の時間帯に長らく『高校通信教育講座』を編成していたが、あれはその名残である。

午前中は教育番組

かくして、民放初の教育番組専門局はスタートを切った。会長には東映の大川博社長、社長には旺文社の赤尾好夫社長が就任した。

開局当初のキャッチフレーズは「楽しい教育番組、ためになる娯楽番組」。その通り、番組編成は、午前中は学校放送番組で、午後の休止を挟み、夜に娯楽番組を放映した。
ちなみに、学校放送番組は小学生低学年・中学年・高学年と3タイプに分けられ、一番組は20分尺。合間には『こどもニュース』が流された。
そう、いわゆるEテレがやりそうな番組を民放で流していたのだ。中には、『教室テレビ参観』なる番組もあり、これはテレビカメラを小学校の教室に持ち込み、実際に行われる授業を見せるものだった。

開局早々、ピンチに

だが――当然ながら、これらの学校放送番組は視聴率が取れない。そればかりかスポンサーも付きにくい。
夜は夜で、娯楽番組といいつつ、教育番組の比率を50%以上にする必要から、例えば「二宮尊徳」を題材にした修身ドラマを作るといった体だった。キャッチフレーズ通り、ためになる娯楽番組。当然ながら、夜は夜で視聴率は低迷した。

開局そうそう、NETは窮地に追い込まれた。
だが、人間、ピンチになると、思わぬ秘策を思いつくもの。NETも例外ではなかった。そしてこの秘策が、思わぬヒットを生むのである。
海外ドラマだ。

広義の教育番組という新解釈

NETは開局した年――1959年11月から、アメリカのドラマ『ローハイド』を週一で放映することにした。日本における1時間ものの海外連続ドラマ第1号である。
南北戦争後のアメリカ西部を舞台にした、いわゆる西部劇。リーダー役にエリック・フレミング、副リーダー格に無名時代のクリント・イーストウッド。同ドラマは瞬く間に人気を博し、最高視聴率は40%を超えた。

え? 教育番組の比率を上げないといけないのに、悠長に西部劇なんて流してる場合かって?
それだ。なんとNETはこう理論武装したのだ。「海外ドラマは、海外の文化を学べる教育ドラマです」――と。

海外ドラマの扉を開けたNET

詭弁だ。だが、郵政省もNETの苦しい台所事情を分かっているので、これを黙認した。かくしてNETは「海外ドラマ」という鉱脈を掘り当て、視聴率も上昇したのである。
翌60年には、同じくアメリカドラマの『ララミー牧場』もスタートさせ、こちらも視聴率は40%超え。さらにその人気は社会現象になった。主役を演じたロバート・フラーが来日すると、羽田空港に2000人ものファンが押し掛けたという。いつしか同局は「海外ドラマのNET」と呼ばれるようになった。

当然、このブームに他局も追随した。フジテレビが『パパ大好き』、TBSが『ベン・ケーシー』、日テレが『幌馬車隊』――etc. 時代は「五社協定」の最中にあり、日本の映画界はテレビ局に作品を貸さなかったので、1960年代前半、日本のテレビ界に海外ドラマの旋風が吹き荒れたのだ。

その扉を開いたのは、NETだった。

民放初の映画番組

そうそう、先の『ララミー牧場』は思わぬ副産物も生んだ。それは、同ドラマの解説役として登場した淀川長治サンだ。毎回、ドラマの放映後、西部劇の舞台裏やこぼれ話といったウンチクを披露してくれるので、一躍、名物解説者として人気者になったのだ。

そしてNETは、彼のために次なるステージを用意する。それが、1966年に民放初の映画番組としてスタートした『土曜洋画劇場(現・日曜洋画劇場)』である。この番組で、あの有名な淀川節「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」が生まれる。

NETが始めた洋画番組枠は、淀川サンの人気もあって大評判となった。そして70年代に入ると、民放他局もこれに追随、同種の枠を持つように――TBSが『月曜ロードショー』、日テレが『水曜ロードショー』、フジが『ゴールデン洋画劇場』――毎日、どこかの局が洋画を流す状況になった。そして70年代、お茶の間に洋画旋風が吹き荒れる。

ここでも、その扉を開けたのは、NETだったのである。

アニメは教育番組

次に、NETが仕掛けたのは、アニメだった。
NETは東映が有力な株主である。そして東映には、東映動画(現・東映アニメーション)なる劇場用アニメを作る子会社がある。ここと組んでアニメを作ろうという話になった。
だが、再びあの疑問が湧く。教育番組の“5割縛り”があるのに、アニメなんて作っている場合か?
大丈夫。NETはこう理論武装したのだ。「アニメを通じて、子供の情操教育を図る――」。

詭弁だ。だだ、またも郵政省は黙認した。

民放随一のアニメ放送局に

かくして、アニメ『狼少年ケン』が誕生する。原作はかつて手塚治虫のアシスタントを務めた“天才アニメーター”の月岡貞夫サン。日本初の本格的テレビアニメ――フジテレビの『鉄腕アトム』に遅れること11ヵ月、1963年11月に始まった同アニメは好評を博し、その後2年間も続いた。

そして、この成功を機に、NETは以後、アニメの放送枠を拡大させる。『魔法使いサリー』、『サイボーグ009』、『ひみつのアッコちゃん』――そして今日、『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』に代表される民放随一のアニメ放送局になるのである。

“民放初”の宝庫

そんな次第で、海外ドラマやアニメなど、NETは「教育番組専門局」というハンディを逆手にとり、次々と新たなジャンルを開拓した。

そんなNETが次に仕掛けた番組が、今では普通に見かける、あのジャンル。現在、ウィークデーの月曜から金曜にかけて、民放各局は当たり前のように朝の時間帯に情報・ニュース番組を流しているが、実はアレも、NETが先鞭をつけたものだった。

時に1964年4月1日。この番組のために、前月をもってNHKを退社した木島則夫アナウンサーをホストに、アメリカの『トゥデイ』をモデルとした新番組が始まった。民放初の情報・ニュース番組『モーニングショー』である。

たちまち好評を博し、以後、民放他局も追随したのは言うまでもない。

昼のワイドショーもNETから

また、これも今や当たり前の昼帯のワイドショーを開拓したのもNETだった。
時に1965年4月5日。当時は、昼帯といえば主婦向けの生活情報番組しかなかったところに、芸能ゴシップや社会ネタを扱う民放初のワイドショー『アフタヌーンショー』を始めたのだ。
翌66年1月からは落語家の桂小金治を司会に起用し、彼はあらゆる時事ネタに庶民目線で感情を露わにしたことから「怒りの小金治」と呼ばれ、視聴率は20%台へ――。番組人気は社会現象になった。

気が付けば、朝も昼も、NETの番組が他局を圧倒していたのである。

NET、全日1位に

話を一旦、現代に戻します。
テレビ朝日が開局初となる、年間視聴率でプライムタイム1位となったのは、今から4年前の2012年。当時、同局はお祭り騒ぎに沸いた。
翌13年には、プライムとゴールデンの二冠王となった。かつてのNET時代を思うと、隔世の感である。

ところが、である。その遥か前――1969年から71年までの3年間、なんとNETは年間の「全日」視聴率で、3年連続1位になっていたんですね。これは驚き。
そう、そのけん引役となったのが、まさに前述の『木島則夫モーニングショー』であり、『桂小金治アフタヌーンショー』だったというワケ。

そして、そんな風に我が世の春を謳歌するNETを虎視眈々と狙うメディアがあった。
朝日新聞である。

東映VS旺文社

今日、テレビと新聞は緊密な系列関係にある。いわゆる「クロスオーナーシップ」だ。日本テレビ=読売新聞、TBS=毎日新聞、フジテレビ=産経新聞、テレビ朝日=朝日新聞、テレビ東京=日経新聞の5大系列。
――だが、アレは初めから形成されていたワケじゃないんですね。今回の話でも分かる通り、NETは当初、朝日新聞とは何の関係もなかった。

コトの始まりは、NETの経営の主導権を巡る争いだった。1965年、大株主である東映と旺文社の間で、路線対立が起きたのだ。娯楽路線を掲げる東映・大川氏に対して、旺文社の赤尾氏はあくまで教育放送にこだわった。
両者の対立は激化し、旺文社は主要株主である日経新聞を味方につけ、一方、東映は朝日新聞に自社が持つNET株の半分を譲渡し、これに対抗した。

この時、朝日新聞からNETへ1人の男が転籍する。のちに「テレビ界の怪物」と呼ばれる、三浦甲子二(きねじ)その人である。

怪物・三浦甲子二の登場

三浦甲子二――その経歴はなかなか興味深い。
大学時代に朝日新聞の発送部にアルバイトとして入り、そのまま社員に登用される。持ち前の人好きのする性格で、一介のヒラ社員ながら社主と懇意になったり、有力政治家である河野一郎に取り入ったりして、やがてノンキャリから出世コースの政治部記者に抜擢される。そこでも頭角を現し、一デスクながら政治部長を凌ぐ権限を持ち、朝日の一面は彼の手によって作られるようになる。気が付けば、朝日新聞最大の実力者となっていた。

だが、1963年、朝日新聞社の社主と経営陣が対立した「村山事件」のあおりを受けて失脚。65年、NETへ取締役として転籍したのだ。
時に、NETの社内では東映・朝日と旺文社・日経の路線対立の真っ最中。三浦はここでも暗躍した。彼が問題解決のために接近を図ったのは、テレビ行政に莫大な権力を持つ時の自民党幹事長――田中角栄だった。

「腸ねん転」問題

NETの三浦甲子二取締役は、自民党の田中角栄幹事長と密談を重ねた。目的は、NETの「一般局」への変更と、東京と大阪の「腸ねん転」の解消である。

腸ねん転――。
当時、東京と大阪のテレビネットワークは奇妙な状態にあった。NETは大阪では毎日放送(MBS)とネットワークを結び、一方、TBSは大阪の朝日放送(ABC)と組んでいた。MBSは毎日新聞系で、ABCは朝日新聞系である。TBSも毎日新聞系だ。これが「腸ねん転」。
三浦はNET内で朝日新聞の支配力を高めるために、東阪を朝日系で統一しようと考えたのだ。

だが、コトはそう単純ではない。ABCは当時、関西最強のテレビ局で、片やTBSも当時は“民放の雄”。いわば東西の横綱同士がネットワークを結んでいる状態で、NETがそこに楔を打つのは容易でない。何せNETは教育専門局なのだ。
そう、まずはNETを一般局に変えるしかない――三浦はそう考えた。

田中角栄の大岡裁き

タイミングのいいことに、三浦の願いは、時代が味方した。
当時は、科学技術教育専門局として1964年に開局した東京12チャンネル(現・テレビ東京)の経営が壊滅的に悪化していたのだ。そして、かの田中角栄も1972年、政界のトップ――内閣総理大臣へと上りつめていた。

かくして、時の総理は、次のような施策を打ち出した。
「NETを一般局にする。そして東京12チャンネルも一般局にして、これは日経にやる。その代わり、日経はNETから出ろ。日経の持っている株は朝日に譲れ。それと同時にTBS、日テレに入っている各新聞社の持ち株を、この際、一挙に整理してしまおう」
世にいう、角栄の大岡裁きである。

一般局へ、そして腸ねん転の解消

第二次田中内閣時代、角栄の命を受けて郵政大臣に就任した久野忠治は、1973年11月、NETと東京12チャンネルを一般局へと変更した。
これを受けて同年12月、朝日・毎日・読売の三新聞社間で合意書面が交わされた。朝日、毎日の持つ日本テレビ株は読売へ、朝日、読売の持つTBS株は毎日へ、それぞれ譲渡。日経の持つNET株も朝日へ譲渡されたのである。

そして75年3月――TBSとNETは、それぞれ関西の準キー局であるABCとMBSを交換し、ここに、長年の懸念の「腸ねん転」が解消される。

気が付けば、朝日新聞はNETの有力株主となり、読売・毎日・産経に出遅れていたテレビ界への進出を果たしていた。そして、この時から今日に連なる朝日新聞――ANN(All-nippon News Network)というクロスオーナーシップが確立するのである。

だが、時に専務となった怪物・三浦甲子二の野望は止まらなかった。
社名変更である。

テレビ朝日へ

同局の正式名称は『日本教育テレビ』である。だが、開局の翌年には早くも東映の大川社長は、対外的には『NETテレビ』の略称を用いていた。少しでも“教育色”を薄めたいという措置である。
時に、三浦甲子二専務はこれに「朝日」の冠を付けようと考えた。一般局となった同局を名実共に朝日の会社にしようという目論見である。

かくして1977年4月、NETは『全国朝日放送』へと改称される。略称・テレビ朝日。東京キー局において、読売も毎日も日経もなしえない、唯一の新聞社名を冠したテレビ局となった。

だが、怪物・三浦の野望はこれで終わらない。彼はこの新社名を国内外へアピールするための奇策に打って出る。それは、あのNHKをも出し抜くものだった。

モスクワオリンピックの単独放送契約である。

前代未聞の単独契約

それまでオリンピックの中継といえば、NHKと民放が協定を結び、「ジャパン・プール(現・ジャパン・コンソーシアム)」を結成して、共同で契約するのが通例だった。しかし、社名変更するひと月前の77年3月、三浦は単身モスクワへ乗り込み、単独で国際オリンピック委員会(IOC)と契約を交わしたのだ。背景として、こういわれている。朝日の記者時代、河野一郎番だった彼は日ソ漁業交渉で河野に随行して何度もソ連に渡り、かの国の政界にコネクションがあったのだ、と。

他局は猛反発を見せるが、契約自体は合法であり、テレビ朝日はオリンピックに向けて、社を挙げて取り組み始める。

77年4月、早速、実況中継に必要なアナウンサーが大量に採用された。それまで年に2~3人の採用だったのが、一挙に6人も新人が採用されたのだ。その面々が、古舘伊知郎をはじめ、南美希子、佐々木正洋、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣たち――。
そう、稀代の天才アナウンサーは、テレ朝の五輪単独契約がなければ、採用されなかったかもしれないのだ。

1977年のテレビ朝日

さらに、怪物は二の矢、三の矢も用意した。
1977年4月1日の社名変更の記念番組では、女優の悠木千帆が樹木希林と改名し、芸能界で話題になった。続いて5月には、日曜洋画劇場でポルノシーンが問題視された『エマニエル夫人』を放送。社会的反響を巻き起こすと共に、30.8%という驚異的高視聴率を叩き出したのである。
さらに10月、米ABCから購入した連続大型ドラマ『ルーツ』を日本の放送史上初めて8夜連続で放送したところ、これも平均視聴率23.4%と大成功。

かくして、テレビ朝日はNET時代のマイナーなイメージを払しょく。ようやく一般局としての存在感を示したのである。

怪物の挫折

だが、全てが順風満帆に見えた三浦甲子二専務の策だったが――神様は時に残酷である。
1979年12月、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、西側各国がオリンピックへのボイコットを表明。日本もこれに同調したのである。

1980年7月19日、モスクワオリンピックが開幕する。
だが、日本が出場しないため、テレビ朝日は放映を大幅に縮小せざるを得なかった。生中継はなく、録画映像を深夜に放送するという体だった。
一説には27億円とも言われる契約金額を支払ったテレ朝は大損害を被った。社名変更して上昇機運にあった同社は、再び元のマイナー局へと逆戻りしたのだ。

怪物の権威は失墜した。彼にとって、テレビに舞台を移して経験する初めての――そして大きな挫折だった。
失意の中、1985年に怪物はこの世を去る。享年60。若すぎる死であった。

新たな時代の転機

だが、その死と入れ替わるように、テレビ朝日に新たな転機が訪れようとしていた。
1985年春、電通が制作会社のオフィス・トゥー・ワンと組んで、テレビ朝日に新番組の企画を持ち込んだのだ。それは、同事務所に所属する久米宏をメインキャスターに、新タイプのニュース番組を仕掛けるというもの。
当時、久米は日テレで『久米宏のTVスクランブル』という生の情報番組に司会役で出演し、好評を博していた。いわばそのニュース版である。

この企画に飛びついたのが、報道局次長の小田久栄門だった。アニメ『ドラえもん』をテレ朝に持ち込んだ功労者であり、後に「テレ朝の天皇」と呼ばれる御仁である。

誕生「ニュースステーション」

新番組の企画会議は、テレビ朝日、電通、オフィス・トゥー・ワンの3社間で秘密裏に進められた。久米宏本人も何度か出席し、意見を述べた。この時期、彼は「充電期間」と称して、日テレの『おしゃれ』を除く全てのレギュラー番組を降板していた。

かくして、同年の10月7日、77分尺という民放初の大型ニュース番組が始まる。『ニュースステーション(以下、Nステ)』である。
同番組は、完成したばかりの「テレビ朝日アーク放送センター」から放送された。広大なスタジオセットは久米宏の部屋をイメージして作られ、それは既存のニュース番組にはないリアルなものだった。

番組コンセプトは「中学生でもわかるニュース」。NHKやTBSの高所からの報道姿勢への小田報道局次長のアンチテーゼだった。

海外ニュースで飛躍

だが、その新しい大型ニュース番組の滑り出しは必ずしも順調ではなかった。初週の平均視聴率は8.7%。夜10時台のニュース番組に視聴者はなかなか馴染めなかったのだ。

変化の兆しが訪れたのは、翌86年1月28日、アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー」の事故だった。事故の一部始終をCNNが生中継しており、同社と提携関係にあったテレ朝はこの映像を独占使用できた。この日、『Nステ』は初めて2桁となる視聴率14.6%を記録する。

そして、続く2月には「フィリピン政変」が起こり、連日この模様を現地から安藤優子サンが伝え、視聴率は10%台後半が頻発するようになった。

長寿番組へ

『Nステ』は時代の顔になった。モスクワオリンピックの失敗で低迷していたテレ朝は、完全に負のイメージを払拭した。

同番組はその後、18年間で全4795回放送され、全期間の平均視聴率は14.4%。番組を立ち上げた小田久栄門は「テレ朝の天皇」と呼ばれ、初代プロデューサーの早河洋は後にテレ朝の社長になった。朝日新聞からの天下りで占められた同ポストの初のプロパー社長だった。

『Nステ』の成功で、テレ朝は以後、有望な新番組の名前に「ステーション」を付けるのが通例になった。『ミュージックステーション』や『SmaSTATION!!』、そして『Nステ』の後番組の『報道ステーション』がその代表格だ。

新ジャンルはテレ朝から

かの番組の成功は、他局へも波及した。
各局が夜に大型のニュース番組を編成するようになったのだ。さらに、その内容も『Nステ』に倣い、キャスターが意見を述べたり、芸能人が出演したりと、ソフトなスタイルが主流になった。
そう、今日のニュース番組の隆盛は、テレ朝が扉を開けたのだ。

思えば、NET時代から新しいジャンルの番組を開拓してきたのは、常にテレ朝だった。海外ドラマ、アニメ、朝の情報番組、昼のワイドショー、そして夜の大型ニュース番組――。

そして今また、同局は新たな扉を開けようとしている。
『AbemaTV』だ。

新しいプラットフォーム

時代は一気に飛んで、2016年4月、テレビ朝日はサイバーエージェントと組んで、新しいプラットフォームを立ち上げた。主にスマホなどで視聴する『AbemaTV』である。
それは、アプリをダウンロードすれば、誰でも無料で見られるテレビで、24時間編成。広告で運営される。
チャンネル数は約30。ニュースをはじめ、アニメ、スポーツ、海外ドラマ、釣り番組など多岐にわたる。バラエティなどオリジナルの番組も少なくない。

驚くのは、アプリのダウンロード数だ。開局から7カ月で1000万DLを達成。これは、かつてNTTドコモが展開した『NOTTV』が3年半で175万契約が限界だったのに対して、いくら無料とはいえ破格である。しかも――視聴者の6割は35歳以下で、メインは20代だそう。
昨今、「若者のテレビ離れ」が叫ばれる中、まさに金の鉱脈かもしれない。

未来へ――

『AbemaTV』が画期的だったのは、着想から開局までわずか1年半というスピード感である。サイバーエージェントの藤田晋社長が「テレビの退潮が見えている今、それを克服する新しい事業を共同でやりませんか?」と、テレ朝の早河洋社長に提案したのが、2014年の10月。

普通、そんな短期間で新しいプラットフォームは作れない。聞くと、早河社長は全面的に藤田社長に開発を任せ、テレ朝側から一切の口出しをしなかったという。

思えば、NET時代から、同局は積極的に“外の血”を取り入れながら、発展してきた。海外ドラマの輸入をはじめ、東映動画(現・東映アニメーション)の作るアニメに、東映の作るシリーズドラマ。極めつけは、本来なら自局の報道部の聖域とされるニュースにすら、外部のオフィス・トゥー・ワンの血を取り入れたのだ。

もし、今が「テレ朝の時代」だとしたら、そんな風に積極的に外部の血を取り入れてきた結果かもしれない。

さあ、次は他局が真似をする番だ。

(文:指南役 イラスト:高田真弓)

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