ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

第24回「女子アナの歴史」(中編)

 1988年4月2日――この日は、1925年(大正14年)に翠川秋子サンが東京中央放送局(現・NHK)に女子アナとして採用されて以来、90年以上を誇る日本の女子アナ史の中でもエポックメーキングな日として記憶される。フジテレビの名物番組『プロ野球ニュース』の週末版のメインキャスターに、入社2年目の中井美穂アナウンサーが起用されたのだ。

 それまでニュース番組のスポーツコーナーを女子アナやフリーの女性キャスターが務めることはあっても、独立したスポーツニュース番組で、そのメインキャスターを女子アナが担うのは初めてだった。しかも入社2年目である。前代未聞だった。
 それだけじゃない。彼女はプロ野球の知識がまるでない、ずぶの素人同然だったのだ。そのため、助っ人要員として、大矢明彦、平松政次、谷沢健一ら3人のプロ野球OBたちが彼女をサポートする役回りとなった。

化粧しない女子アナ

 中井美穂アナは、いわゆる女子アナっぽい女子アナではなかった。出身大学は日大芸術学部――そう、日芸である。しかも放送学科だ。同学科の出身といえば、君塚良一サンとかクドカンとか中園ミホさんとか小山薫堂サンとか元日テレの五味一男サンとか、圧倒的にテレビの作り手の人たちが多い。実際、彼女も入社試験の際に「情報バラエティ番組を作りたい」と言ったくらいだから、もともと裏方志向の強い人だったのだろう。だからこそ最終面接で、あのジュニアこと鹿内春雄議長から「最終面接で化粧してこなかったのは君くらいだ」と驚かれたほど。しかし、それゆえジュニアに「面白いヤツだ」と気に入られ、入社を果たしたという。

 本シリーズの前編でも紹介した通り、彼女のテレビデビューは第1回目の『FNS27時間テレビ』である。後に恒例となるグランドフィナーレ前の新人アナの提供読み。同期の青木美枝アナ、笠井信輔アナ、塩原恒夫アナに続いて、彼女はしんがりで自己紹介した。そこで、ちょっとグダってしまい、早速タモリさんから「ダメだ!」とダメ出しを受ける。彼女は「え~」と舌を出した。

 これが、史上初のタレント・アナ誕生の“のろし”だった。

女子アナ・タレント第1号

 中井美穂アナは不思議な魅力を持っていた。それは、なぜか周囲が「支えたくなる」魅力である。
 彼女は、決して際立った美人というワケじゃない。でも、どこか惹きつけられる魅力があった。『プロ野球ニュース』のメインキャスターへの抜擢もそういうことだ。野球の知識は何もない。でも、彼女が何を伝えるのか目が離せない――それは、1976年の番組スタート以来、佐々木信也サンが牽引してきた同番組のマンネリ化を打破する狙いもあった。

 そう、彼女は能力が認められて起用されたワケじゃなかった。また、お飾りとしての際立った美貌があるワケでもなかった。いうなれば――そのキャラクターの魅力で起用されたのだ。つまり彼女は、女子アナ史上初めて、一人の「タレント」として認知されたのである。

周囲がほっとけない女子アナ

 『プロ野球ニュース』に抜擢された1年目、中井アナは球場へ取材に行く度、他社の記者や選手たちからイジられたという。今のように女子アナが普通に選手たちに取材する時代ではなく、球場にはベテランの男性記者しかいなかった昭和の話である。男性記者には「お姉ちゃん、何しに来たの?」とからかわれ、選手たちからはユニフォームの胸の番号を手で隠され、「俺が誰だか分かる?」とクイズを出されたり――。

 でも、彼女は何を言われても明るさを失わなかった。すると、そんな彼女の愛らしさに、次第に周囲も「支えてあげなきゃ」という気持ちが芽生えたそう。気が付けば、彼女が球場へ行くと、他社の記者たちが取材の仕方をアドバイスしてくれたり、監督や選手たちもリップサービスで特ネタをくれるようになった。
 そして1年も経つころ、テレビの中の彼女は一人前のスポーツキャスターに成長していたのである。

女優デビューも

 史上初のタレント・アナ、中井美穂伝説はこれだけに留まらない。
 入社3年目の1989年7月、彼女はフジテレビの月9ドラマ『同・級・生』に出演する。これも前代未聞だった。今では、女子アナが連ドラに出演するのはさほど珍しいことではない。同局でも、カトパン(加藤綾子アナ)と山崎夕貴アナがバーの客を演じた『HERO(第2シーズン)』や、永島優美アナがヒロインさくらの働く整備工場の同僚を演じた『ラヴソング』などの例がある。しかし――いずれもゲスト出演だ。
 それに対し、中井アナが演じたのは、安田成美演ずるヒロインの大学時代の友人役。群像劇のメインの登場人物の一人で、レギュラー出演者だった。つまり、1クールを通してガッツリ女優を演じたのだ。こんなことは、後にも先にも彼女しか例がない。

 史上初のタレント・アナ。だが、それは中井美穂という一人の傑出した女子アナの現象に留まらなかった。驚くべきことに、彼女の登場はほんの序章に過ぎなかったのだ。中井アナが入社した翌年、あの三人娘が登場する。

女子アナ・タレント化を決定づけた三人娘

 1988年は、90年以上を誇る女子アナ史の中でも、エポックメーキングな年として記憶される。え? さっきもエポックメーキングと言わなかったかって? 仕方ない。時代が進化する時、奇跡は連続して起きるものだ。

 その年、フジテレビに新たに3人の女子アナが誕生する。有賀さつき、河野景子、八木亜希子である。入社早々、彼女たちは「三人娘」と呼ばれた。天然でアイドルオーラのある有賀、上智大学在学中に「ミス・ソフィア」に選ばれ、その美貌に定評のあった河野、清楚系で癒しキャラと言われた八木と、三者三様の魅力があった。

 彼女たちは入社早々、テレビ誌などで積極的に紹介された。もはやそれはアナウンサーというより、新人アイドルを紹介するノリに近かった。「今年、フジテレビからデビューする新人アイドルはこの3人娘!」というノリである。

三者三様の売り出し方

 最初にブレイクしたのは、天然キャラの有賀さつきアナだった。ちなみに、「旧中山道」を「いちにちじゅうやまみち」と読み違えたのは彼女ではない。彼女は、ある番組でそのエピソードを紹介したに過ぎない。つまり“濡れ衣”だ。だが、それが彼女のエピソードとして語り継がれるほど、普段からNGが多かったのは事実である。
 そして、そんな天然キャラの彼女をフジは積極的にバラエティの特番で起用した。芸人たちからツっこまれる彼女は、もはや女子アナではなく、紛うことなくタレントだった。NGを出して照れ笑いする彼女はキラキラと輝いていた。

 反対に、河野景子アナはその優等生キャラと美貌で、業界関係者からの人気が高かった。彼女は入社1年目から報道番組で、先輩たちの代役などで積極的に起用された。落ち着いた語り口と正確さは、新人アナとは思えないほど。しかも、そこに類まれなる“華”が備わっていたのだ。
 のちに彼女は、相撲界の大横綱、貴乃花と結婚する。

 そして、八木亜希子アナ。実は三人娘の中で、最もブレイクが遅かったのが彼女である。2人に比べ、今ひとつ売りに欠けた彼女は、その無難なキャラでアシスタント的に起用されることが多かった。そして、あの番組も――。
 だが、その番組が彼女の運命を大きく変えることになる。

明石家サンタの顔に

 1990年12月25日、その伝説の番組は始まった。『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』である。司会は明石家さんまと八木亜希子アナ。クリスマス・イブの深夜、一人寂しく過ごす視聴者から不幸な話を電話してもらい、面白ければプレゼントをあげるという趣旨である。

 これが八木アナにハマった。さんまサンとのどこか脱力した掛け合いは絶妙で、それは視聴者も巻き込み、いつしか「八木さんのファンです」「どこが?」「別に」という定番のギャグまで生み出す。気が付けば、番組にとって八木アナは欠かせない存在となっていた。
 今年、番組は27年目を迎えるが、司会の2人は不動である。

ウッチャンとの2ショット事件

 1991年9月、そんな八木亜希子アナが“フライデー”される。お相手はウッチャンナンチャンの内村光良サンだった。ウッチャンが八木アナを彼女の自宅まで車で送ったところを撮られたという。
 この時、痛快だったのは、それを報じるフジテレビのワイドショー『おはよう!ナイスデイ』の司会が、当の八木アナだったこと。彼女は照れ笑いを浮かべながら、単なる友人関係と釈明した。しかし、一緒に司会を務める川端健嗣アナはどこか楽しそう。番組のテロップも「さわやか交際発覚」と煽りモード全開。そんな身内をからかう大らかさが、フジテレビのいいところでもあった。

 この一件からも分かる通り、八木アナはもはや一人のタレントだった。フジの女子アナというよりは、いわば同局の専属タレントだ。タレントだから芸能人と浮名を流しても、それがキャリアアップに繋がるなら局としても大歓迎というワケだ。

女子アナ社員からタレントへ

 思い返せば、かつての1980年代前半の女子アナブームは、あくまでテレビ局の社員としての位置づけだった。フジの山村美智子(現・美智)アナ・寺田理恵子アナ・長野智子アナらの「ひょうきんアナ」にしても、益田由美アナのあだ名「ひょうきん由美」にしても、あくまで『オレたちひょうきん族』や『なるほど!ザ・ワールド』といった番組内で、彼女たちに与えられたキャラクターだった。

 それに対し――中井美穂アナと、それに続く三人娘は、テレビ局の一社員ではあるけど、もはやテレビ画面を彩るタレントだった。特定の番組内のキャラクターではなく、彼女たち自身がキャラクター性を持ち、輝いていた。

 それは、1988年に日テレに入った、あの女子アナも同様だった。

日テレ奇跡の88年

 フジテレビに三人娘が入った同じ年、日テレに2人の女子アナが入社する。永井美奈子アナと関谷亜矢子アナである。
 日テレにとって1988年というと、創立35周年だ。この『TVコンシェルジュ』を毎回お読みになられている方なら、覚えているかもしれないが、この年、80年代に低迷を極めた日テレが起死回生とばかりに、1つのプロジェクトを立ち上げる。「SI35」である。それは人事から編成、番組企画まで、あらゆる要素を大胆に改革しようというもの。そこで生まれた番組が五味一男サンら30代の若手ディレクターで作る『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』であり、人事面ではこの年、後にダウンタウンの番組を手掛ける菅賢治サンの中途入社であり、新人アナウンサーでは、福澤朗アナや前述の2人の女子アナの入社だった。

 そして――この88年を機に、日テレが見事に復活を遂げ、90年代の黄金期を迎えるのは承知の通りである。中でも、そのけん引役を果たしたのは、彼女だった。

スーパー女子大生から女子アナへ

 そう、永井美奈子アナだ。成城大学出身で、「ミス成城」の肩書を持つ彼女。在学中からその美貌とタレント性は有名で、JJにグラビアが掲載されたり、六本木のディスコのVIPルームはどこでも顔パスで入れた等々の逸話がある。いわば、スーパー女子大生だった。
 今日、女子アナといえば、大学時代にミスキャンパスに選ばれたり、在学中に女性誌の読者モデルを務めたりといったキャリアが半ばスタンダード化しているが、その路線を敷いたのは永井アナである。

 そんな永井アナだから、入社早々、スーパールーキーと話題になったし、1年目から同局の看板番組である『アメリカ横断ウルトラクイズ』に起用されたりと、もはやその扱いはアイドルやタレントのノリだった。

報道からアイドルまで――日テレの顔に

 もっとも、永井アナが活躍できたのは、単にスーパー女子大生だったからではない。彼女自身の能力の高さである。
 入社3年目には、日テレの看板ニュース番組『NNNニュースプラス1』のメインキャスターを任され、抜群の安定感を発揮した。90年代の日テレ黄金期を支えたバラエティ『マジカル頭脳パワー!!』にも呼ばれ、「マジカル・オペレーター」として丸7年間も務め上げた。

 また、同局の顔ともいえる『24時間テレビ』には、3年連続で総合司会を務める一方、究極の悪ふざけと言われた『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のアシスタント出演も、歴代最多の10回を数える。かと思えば、同僚の米森麻美アナ、薮本雅子アナと共に「DORA」なるアイドル・ユニットを結成して、CDをリリースしたこともある。加えて、“七色の声”を持つとも言われ、そのナレーションの技術の高さには定評がある。

 彼女は96年にフリーになるが、その後も日テレをメインに活動を続け、01年に結婚・出産して第一線から退いた。その活躍期間は丸々日テレの90年代の黄金期と重なる。名実ともに日テレの顔だった。

TBSの逆襲

 元々、テレビ時代の女子アナ黎明期から、そのフラッグシップであり続けたのはTBSだった。テレビ界でいち早く女子アナの新規採用に取り組み、60年代から70年代にかけては、木元教子、今井登茂子、宇野淑子、見城美枝子、三雲孝江、吉川美代子ら名物女子アナを数多く輩出した。「民放の雄」時代のTBSは有名女子アナの宝庫であった。

 しかし、80年代に入ると一転、女子アナブームで先行したフジテレビの後塵を拝すようになり、また、80年代末から90年代にかけては、永井美奈子アナを中心とする日テレの激しい追い上げも食らい、すっかり女子アナ界でTBSの存在感は薄くなっていた。

 そこで1990年、TBSは、横浜雙葉中学・高校からICU(国際基督教大学)へと進んだ正統派お嬢様の渡辺真理アナを採用する。その美貌と育ちの良さは、TBSらしい王道感に満ちていた。彼女は入社2年目に『モーニングEye』の司会に抜擢され、一躍注目を浴びる。

 そして93年、TBSの女子アナの歴史を覆す、あの大物が入ってくる。

登場、雨宮塔子

 中井美穂アナを起点とする空前の女子アナブームは、もはやテレビ局に所属するタレントを想起させた。その先鞭をつけたのはフジテレビで、日テレがそれに追随したが、かつて「民放の雄」と称されたTBSも、ようやく、その路線に舵を切る。

 時に1993年、TBSにただ一人の女子アナ、雨宮塔子アナが採用される。最終面接ではピンクレディーを振付入りで披露したとの逸話が残されており、既にその時から大物の片りんはあった。
 彼女は入社から半年後、早くも番組アシスタントに抜擢される。新番組『どうぶつ奇想天外!』である。司会はみのもんたサン。この番組で、彼女は毎回、様々な動物の着ぐるみを着て、一躍脚光を浴びる。また、みのサンとのやりとりではしばしば天然ボケを連発。瞬く間にお茶の間の人気者になった。

巨匠と名コンビに

 さらに、94年4月からは、新番組『チューボーですよ!』の初代アシスタントにも起用される。司会はご存知、巨匠こと堺正章サンである。
 そして、ここでも彼女は巨匠との絶妙のコンビワークを発揮する。天性のボケを連発し、アシスタントの彼女を司会の堺サンがアシストするという、奇妙な逆転現象が評判となる。

 それにしても――みのサンに堺サンという、芸能界の重鎮に臆せず接して天然ボケを連発、両ベテランから気に入られるという芸当は、並のタレントにできることじゃない。しかも両番組とも立ち上げ時に係わって、どちらも長寿番組に育て上げている。そこからも彼女の偉大さが分かるというもの。

 ――ここへ至り、女子アナの分野でフジと日テレの後塵を拝していたTBSも、ようやく同じ土俵に立てたのである。

1994年の当たり年

 不思議なことに、女子アナの世界は何年かに一度、当たり年が来る。かつては1988年がそうだったが、その再来ともいえる年が再びやってくる。
 1994年である。この年、フジは木佐彩子アナ、富永美樹アナ、武田祐子アナが入社する。アイドルの木佐、天然の富永、いぶし銀の武田と三者三様の個性。「新・三人娘」である。

 そしてTBSには、10年に一人の逸材、進藤晶子アナが入社する。彼女は翌95年に深夜の新番組『ランク王国』の初代MCに抜擢され、様々なコスプレを披露。一躍、若者たちのアイドルとなった。97年には『筑紫哲也 NEWS23』のスポーツキャスターに就任し、今度はファン層を中年男性にも広げる。1年先輩の雨宮アナとは仲が良く、TBSの強力タッグと呼ばれた。

 そして――あの公共放送にも、類まれなる原石が誕生する。

アナ界のサラブレッド

 その原石こそ誰あろう、久保純子アナである。
 両親とも日本テレビの元アナウンサーという、アナ界のサラブレッド。小学校時代は父親の久保晴生サンがロンドン支局の特派員に赴任したことからイギリス暮らし、高校時代は2年間の交換留学でアメリカに暮らした。

 そんな多感な十代を過ごして英語力は上達したが、逆に日本語はかなり怪しかったという。そのため、NHKの入社試験でも思うように話せず、これは落とされると思っていたら、面接官の一人、加賀美幸子アナが「気持ちで伝えようとしている」と、よもやの賛辞。そして――晴れて合格。
 NHKアナウンサー、クボジュンの誕生である。

NHKのアイドルアナへ

 さて、久保純子アナ。NHKの新人は、男女例外なく初任地は地方へ出される不文律の通り、最初の2年間は大阪支局に赴任する。そして96年、満を持して東京のアナウンス室へ異動。いきなり『ニュース11』のスポーツキャスターに抜擢される。同番組のメインキャスターはご存知、NHKの「殿」こと松平定知サン。この2人の名コンビぶりが評判を呼び、クボジュンは瞬く間に人気の女子アナになった。かの有名な「ホワイトソックス事件」など、トチる度に彼女の人気と知名度は上昇。NHKの女子アナとしては、かつての頼近美津子アナ以来の「アイドルアナ」と呼ばれるまでになった。

 そして――あの世紀の大舞台の司会者に抜擢される。
 紅白である。

3年連続紅白へ

 1998年、久保純子アナは紅白の紅組司会者に抜擢される。
 それまで紅組司会者といえば、女優や歌手が務めるのが一般的だったが(対して白組はベテランの男性アナや男性司会者が多かった)、そのポストをNHKの女子アナが単独で務めるのは、第三回の本田寿賀アナウンサー以来、実に45年ぶりのことだった。

 さらに、同年夏には受信料の支払いを呼びかける同局のポスターのモデルに起用される。これが駅に貼られるや否や、盗難が続出。NHKは急きょ、有料で販売することになったという。

 結局、紅白の司会を彼女は2000年まで3年間連続で務め上げる。その時、かつての原石は、ダイヤモンド並みに光り輝いていた。

1998年の当たり年

 話を少し戻す。前に、女子アナの世界は時々、当たり年が訪れると書いたが、それは90年代後半の1998年もそうだった。

 この年、日テレに後に松坂大輔投手と結婚する柴田倫世アナが、NHKには現在もフリーアナとして活躍する膳場貴子アナが、そして、ここへ来て、かのテレビ朝日にも逸材たちが入社する。後に『ニュースステーション』で活躍する上山千穂アナ、バラエティ担当として活躍し、ウッチャンと結ばれる徳永有美アナ、そして長身で美人の野村真季アナである。この3人を総称して「テレ朝三人娘」と呼ぶ――。

視聴率と女子アナ

 俗に、テレビ局の視聴率と女子アナの活躍は比例するとも言われる。80年代から90年代前半にかけてのフジテレビの三冠王時代、同局は多数の人気の女子アナを輩出した。80年代末からは、永井美奈子アナを起点に日テレが攻勢に転じ、大神いずみ、松本志のぶ、魚住りえといった人気のアナたちを番組に投入、視聴率でフジを抜いて90年代のトップに君臨した。

 そして長らく視聴率で民放4位に甘んじていたテレビ朝日――。同局も90年代末から徐々に深夜番組などが脚光を浴び始めて数字が上昇。それと比例するように、女子アナにも光が当たり始めたのである。

フジの女子アナ大量離脱

 さて、フジテレビである。80年代から一貫して女子アナブームをリードしてきた同局だが、90年代も後半になると、視聴率で日テレに抜かれたのと同様、女子アナの世界でも、かつての「三人娘」や「新・三人娘」のような強烈なインパクトを放てなくなっていた。よく言えば、優等生的な女子アナが増えていた。

 そんな中、21世紀が明けて間もなく、同局のアナウンス室に、ある深刻な事態が降りかかる。皮肉にも、その引き金を引いたのはあの番組だった。

 2001年3月31日深夜、『プロ野球ニュース』が25年の歴史に幕を閉じた。かつて、中井美穂アナが週末のメインキャスターに抜擢され、女子アナ・タレント時代の幕開けを後押しした、あの番組である。
 いや、コトはそれだけじゃない。同番組のキャスターを務めていた3人の女子アナ――宇田麻衣子、荒瀬詩織、大橋マキ(なんと入社2年目だった!)らも、これを機に退社するという。フジは伸び盛りの若手の女子アナを一度に3人も失うという非常事態を迎える。

 だが、それは新しい時代を告げる前奏曲、プレリュードでもあった。
 そう、スクラップ&ビルド。
 時に、フジテレビに高島彩アナウンサーが入社する、36時間前の話である。

(文:指南役 イラスト:高田真弓)

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