瑛太と松田龍平がW主演した『まほろ駅前』シリーズで、遠すぎず、近すぎない“理想の男のタッグ”を描き話題となった大森立嗣監督。
最新作『セトウツミ』では、池松壮亮と菅田将暉をW主演に迎え、 “男二人でしゃべるだけの青春”を撮った。
同名の原作漫画は、放課後の河原で、独特の間、言葉遊びに興じる高校生の青春を描き、漫画ファンの間ではじわじわと話題になっていた作品。
大森監督は、強姦事件の加害者と被害者女性の奇妙な関係を描いた『さよなら渓谷』でモスクワ国際映画祭審査員特別賞を受賞するなど、社会派作品も評価が高い。
そんな大森立嗣監督にインタビューをおこなった。
池松壮亮&菅田将暉“ちょうどよい距離感”の作り方
――『まほろ駅前』シリーズに続き、 “男二人のちょうどいい距離感”が見ていて微笑ましかったです。主演である池松壮亮さんと菅田将暉さんの現場での距離感について教えてください。
「ベタベタはしてないけど、二人は割と仲良しでしたよ。それでいて変に気をつかっている様子はありませんでした。
現場では二人で喋っている時もあれば、カットがかかった途端、別々の場所でタバコを吸っていることもありましたね」
――『まほろ駅前』シリーズでは、瑛太さんと松田龍平さんを、撮影セットの中で二人きりにするという演出をされていましたが、本作の撮影現場でも、池松さんと菅田さんを二人にする時間を作られたそうですね。
「たしかに、『まほろ駅前』シリーズでもスタッフをはけさせて、現場で二人だけにする時間を作りましたね。 でも10分とか15分とかですよ(笑)。
別に何が変わるわけでもないのかもしれないけど、二人以外のスタッフや他のキャストが全員いなくなった空間で、俳優でいるということは大きいと思うんですよね」
――二人は今回の現場ではじめてお会いしたんですよね。プライベートでも元々仲がいいのではないかと思うくらい、映画の中の二人の関係は自然でした。
二人の絶妙な距離感は、どのように演出されたのですか?
「まずはじめに、河原での座り位置を決めましたね。『近すぎるから少し離れようか』みたいな微調整をしたことで、二人も『ああ、これくらいの距離感なんだ』と感じ取ってくれたみたいです」
――大森監督はお芝居に関して、特に二人に伝えたことはありますか?
「俺、演出では、ほとんど何も言わないですよ。
俳優が現場で生まれた芝居に対して、何を感じるかが一番大事なので、俳優には『毎回芝居が変わってもいいから』と言います。そうすると“二人が自覚していない魅力”が出てくるんです。演出家があんまり言い過ぎちゃうと、ただの振付になってしまいますから」
――「芝居が毎回変わっていい」という発言には驚きます。
「むしろ毎回同じ芝居をされたくないんですよ。形にされると、大事なものがなくなってしまうので」
内海が嫌な奴だと、池松壮亮が損をする
――池松さん演じる内海が後半になるにつれて、明るくなっていった気がしました。
特に花火のシーンでは、クールな内海が、瀬戸(菅田将暉)にやっと心を開いたように見えて、印象に残っています。
「内海という役は、性格も暗くて、他人へのツッコミが激しいので、意地悪にみえるんです。
途中で『このままだと、池松くんが損するんじゃないか』と思って、夜、花火をするシーンで懐中電灯を顔の下からかざしてもらいました。
そう指示したら『内海ってこういうことやっていいんですね!』と池松くんが喜んでいましたね(笑)。
撮る前は考えていなかったのですが、撮っているうちに、池松くんの笑顔がみたくなったんです。彼は、笑うとなかなかチャーミングですし(笑)」
――花火のシーンでは、映画の内海ならではの人間味を感じました。
さて、大森監督にとってはじめての漫画原作だと思うのですが、撮影現場でも、原作は意識されたのですか?
「漫画の画に引っ張られそうな気がしたので、撮影に入る直前からは読まないようにしました。漫画のコマ割りと映画のカット割りって全然違うものなので。キャストたちにも、『漫画のキャラクターをなぞろうとすると失敗しちゃうので、原作本は意識しなくていいよ』と伝えました」
――原作を読んで、「この作品、大森監督しか映像に出来ないな」と強く思いました。コメディなのですが、内海と瀬戸の家庭環境や将来への不安といった物悲しさの上にユーモアが乗っていますよね。
「原作として『セトウツミ』を使うことも、メインキャストに池松くんと菅田くんがいることも、すでに決まった上でオファーがきたんですよ。
でも、二人は若手の中でも、一緒にやりたかった俳優だったし、原作の漫画を読んだら、ただしゃべっているだけだったのに、おもしろかったんです。
チャレンジではあるけど、台詞や全体の物悲しさも含めて、作品としてとてもよかったので、監督を引き受けることを決めました」
――大森監督にオファーした方は大森監督の作品をキチンと観た方なのだろうと思いました。
「プロデューサーの宮崎大さんは、4作目の『ぼっちゃん』を観て、『あの作品のファンだから』と俺にオファーしてくれたんですよ。
水澤紳吾さん演じる『ぼっちゃん』の主人公と、池松くんが演じている内海はどっか社会に上手くまじれない感じが、少し似ているんですよね」
――秋葉原の無差別殺人事件をテーマにした『ぼっちゃん』ですが、あの作品にもコメディ要素がありますよね。
「『ぼっちゃん』を撮った時に、単純にあの事件を時系列に追っていく映画は観たくないなと思って、コメディチックにしたらやりがいを感じられたんです」
原作の映画化は「自分にささったものを信じる」
――今回の『セトウツミ』は過去の大森さんのコメディ要素のある作品と比べて、さらに“おかしみ”のある映画となっていますよね。それでいて大森作品の魅力である作品全体に漂う“悲しみ”は健在でした。そんな“悲しみとおかしみ”を同居させるために意識していることを教えてください。
「今回はもう少しポップにしてもよかったのではないかと思いますけどね(笑)。
自分で“悲しみとおかしみ”を意識して撮っているわけではなくて、気がついたら、そんな映画になっているんです。
でも、“悲しみ”は、俺が原作を読んだときの印象が自然に出ているのかもしれない。
基本的に原作モノをやる時は、一番初めに原作を読んだ時の感想が一番大事なんです。同じ映画や本を見ても、人によって、自分の中に強く刺さる部分って違うじゃないですか。映画を作る時は、自分が刺さった部分を信じて撮るようにしています」
――「気がついたら、そんな映画になっている」ということは、映画をまとう雰囲気はコントロールし難いものなのですね。
「たとえば構図を作ることは、ある程度、意図してできるものなんです。だけど、コントロールできない、自然とじんわり現れてしまう雰囲気が映画では問われるんですよ。だから怖いんです」
――原作を読んで、特に刺さったポイントを教えてください。
「時々透けてみえる二人の家庭の事情ですかね。内海が『家に晩飯があるだけええやろ』と言うくだりとか。
『河原では楽しそうだけど、家庭ではあんまり幸せではないんだろうな』と思わせる雰囲気がありますよね。
音楽も“明るいんだけど、少し寂しい”雰囲気を出すために、タンゴ調で作ってもらいました」
――たしかに音楽は、内海と瀬戸のスクリーンに映っていない青春さえ、捉えているように聴こえました。
本作の原作本以外に、物悲しさについて影響を受けた漫画作品はありますか?
「どうなんだろう……子供の頃は、『ドラえもん』より、『あしたのジョー』が好きでしたね。あと赤塚不二夫さんの漫画も結構好きです。彼の作品もちょっと物悲しさがありますよね」
――物悲しさといえば、本作は、あからさまな青春讃歌をしてないからこそ、高校生が観たら青春を感じるんじゃないかなと思います。「今の大事にしている時間って、終わっちゃうんだな」という一過性の魅力を感じました。
「この作品は二人が毎日一緒にいますよね。でも当たり前だけど、日が暮れたら二人は河原にいないわけです。そもそも卒業したらお互いの隣にはいないですし。そういう寂しさはこの作品にはあるかもしれないですね」
役者が無防備じゃないと、観客は興味が湧かない
――毎回、大森監督の作品を観た後は、役者さんの顔が余韻として残ります。劇中、川の前でボーっと立っているおじさん役の鈴木卓爾さんの無防備な表情にハッとさせられました。
「俳優が『自分はこう見られたい!』と思って、ガードしていると、お客さんはその登場人物を見なくなるんです。
やっぱり無防備な俳優の方が興味湧きますよね」
――鈴木さんは直視することを戸惑うくらい、無防備でした。
「普通は川の目の前で撮影していると、川の欄干に寄りかかる芝居をするものですが、卓爾がすごいのは、撮影中ずっと寄りかからないことなんですよ。
だから不安定な佇まいが生まれるんです。しかも、指示してないのに勝手にその動作を演じていましたからね」
――佇まいで、もう一点感動したのが、瀬戸のお父さんの服がボロボロで、サンダルが脱げそうになっている姿に、家庭がガタガタであることが伝わってきました。キャストの衣装について監督はどのような指示をされたのですか?
「衣装が『まほろ駅前』シリーズも担当していた纐纈春樹くんという、信頼している方なので、大して指示はしてないです。仮に指示を出しても、細部までは言わないですね。
菅田くんも『夏だからズボンをめくってショート丈にしよう』などいろいろとアイデア出してくれました。
現場でも彼が勝手に靴下を脱ぎだしたし……。あ、でも中条さんのマフラーをバーバリーのチェックにするように指示したのは俺です(笑)」
――原作から引き継いだ、ブレザーという設定にも合いますし、可愛いですよね(笑)
暗い映画にすることが目的ではない
――今後もコメディを監督したいという気持ちはありますか?
「コメディは好きだから撮りたいですね。でも、森繁久彌みたいな俳優、いないからな……(笑)。
でも次に撮る映画はすごく暗い作品です。準備中だからまだ詳しくは言えないけど、一応、原作モノで、かなり過激な映画になります」
――『セトウツミ』を撮られた後の振り幅がすごいですね。『ゲルマニウムの夜』や『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』に衝撃を受けた身としては、とても楽しみです。過激な作品を撮る際の衝動はどこから生まれてくるのですか?
「過激な映画を撮っている時も、あんまり衝動を意識せずにやっていますよ。
実は、俺、今まで仕事だと思って映画を撮ったことは1回もないんです。
ただ、その時々に自分が何を感じるかがすごく大事で、“何かに感動できる自分”がいることを日々確認して、『まだ自分は映画を作っていいんだな』と判断材料にしています。
だけど、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』みたいな、わかりやすく社会の構造をぶち壊していく作品を撮っていた当時は、社会に対して怒りがすごくありましたね」
――「今まで仕事だと思って映画を撮ったことは1回もない」とは衝撃的です!
次回作のテーマは“社会に対する怒り”とは別のベクトルで過激な作品になる予定なのですか?
「今は、社会性とは別の、人間が本来持っている生命力に対してすごく興味があるんですよ。
道徳や法律のような、社会生活を送るために必要な社会性を切り離して、生命力を描こうとすると、世間的には暗くて、暴力のある映画になるんです。
俺はいつも暗い映画を作るけど、結果暗くなっているだけで、それが目的なわけじゃないんですよ」
このインタビューでも何度か名前が出てきた映画『ぼっちゃん』。
弱者の心情にメスをいれ、切り捨てられた人間をユーモラスに描き、“現代社会に上手く参加できない”人たちを拾い上げた作品だ。
就職がなかなか決まらず、社会に無視されているように感じていた学生時代の筆者も、救われた一人。
この作品を広めるべく、チラシ配りをする宣伝部隊に参加し、生まれてはじめて映画に行動を変えられるという経験をした。
大森監督の描く悲哀は、容赦がない。その分、ただのフィクションにとどまらないインパクトを観客に与えてくれるのだ。
『セトウツミ』において、イケメン高校生二人のユーモラスなやり取りの奥に、透けてみえる人生の無常さや満たされない悲しみは、大森立嗣監督が今まで描いてきたものと一緒だ。
青春まっただ中の若者も、青春まっただ中でありながら青春を実感できない若者も、青春を通り過ぎた大人たちも、みんなが劇場で肩を寄せてクスリと笑える傑作である。
映画『セトウツミ』は7月2日(土)に公開。
(取材・文:小峰克彦)
大森立嗣監督 フィルモグラフィ
ゲルマニウムの夜(2005年)
大森立嗣監督の長編デビュー作であり、俳優・新井浩文の初主演作品。
都会で事件を起こし、かつて自分を育てた修道院に帰ってきた男。彼は修道女を強姦し、欲望のままに冒涜の限りを尽くすことで、宗教を試す。
ケンタとジュンとカヨちゃんの国 (2010年)
松田翔太 、高良健吾、安藤サクラ主演の社会の底辺に生きる若者たちのロードムービー。日本映画監督協会新人賞を受賞した。
まほろ駅前多田便利軒(2011年)
瑛太、松田龍平主演。東京都町田市がモデルとなった架空の街“まほろ市”で便利屋を営む男二人の悲喜こもごもの物語。
ぼっちゃん(2013年)
秋葉原無差別殺傷事件がモデルとなった作品。主演は水澤紳吾。派遣社員として働くモテない男の悲哀をユーモラスかつ、過激に描いた。プロデューサーの一人として監督の弟である大森南朋が名を連ねる。
さよなら渓谷(2013年)
大西信満、真木よう子が主演。大学時代に集団強姦事件を起こした男と、その事件の被害者である女の奇妙な同居生活と、かつての強姦事件を追う記者の交流を描く。モスクワ国際映画祭審査員特別賞を受賞。
まほろ駅前狂騒曲(2014年)
『まほろ駅前多田便利軒』の続編。多田便利軒に、二度と会わないはずの行天(松田龍平)の娘が預けられたことから、多田便利軒の二人がトラブルにまきこまれる。前作と比べ作品全体のトーンは明るい。
映画『セトウツミ』 7月2日(土)新宿ピカデリーほか全国ロードショー
©此元和津也(別冊少年チャンピオン)2013 ©2016映画「セトウツミ」製作委員会
配給: ブロードメディア・スタジオ監督:大森立嗣 『まほろ駅前狂騒曲』『さよなら渓谷』
原作:此元和津也 (秋田書店「別冊少年チャンピオン」連載)
出演:池松壮亮 菅田将暉 中条あやみ
鈴木卓爾 成田瑛基 岡山天音 奥村 勲 笠 久美 牧口元美 / 宇野祥平