ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

第10回「フジテレビ物語(中編)」

歴史は1人の英雄の出現で劇的に変わる――。

――なんて僕らは考えがちだけど、現実はちょっと違う。
例えば、電話。グラハム・ベルの発明で、今日のスマホに連なる歴史の偉大なる第一歩が記されたと思いがちだけど、実際はベルの他にイライシャ・グレイやトーマス・エジソンらライバルたちがいて、ベルは彼らとの熾烈な競争の末に、ほんのタッチの差で勝ったに過ぎない。ベルの特許の出願とグレイの出願はわずか2時間差だったという。

飛行機の発明だってそうだ。ライト兄弟単独の偉業と称えられがちだけど、実際は欧米各地に飛行機の発明家たちがひしめいていて、ライト兄弟はその競争に勝利を収めたに過ぎないのだ。日本にも二宮忠八なる傑物がいて、実用レベルの設計でいえば、ライト兄弟より早かったほど。

要は――歴史が変わる一番の原動力は“機が熟す”ってこと。
歴史が変わる直前、既に水面下では沸々と煮えたぎるいくつもの予兆があり、時期が来て、それらが一斉に発芽するのだ。

そう、1980年のフジテレビがそうだったように――。

全てはこの日から始まった

時に、1980年1月20日――。
前年の秋改編で産声を上げたフジテレビの新番組『花王名人劇場』で、この日、1つの実験的な企画が放送された。
タイトルは「激突!漫才新幹線」。同枠のプロデューサーは関西演芸界の重鎮、澤田隆治サン。番組は、司会も入れずにひたすら60分間を漫才のみで繋ぐというもの。当時としては画期的な企画だった。

出演者は3組。関西を代表する漫才コンビの横山やすし・西川きよしに、当時、東京の演芸界で飛ぶ鳥を落とす勢いだった星セント・ルイス。この東西2大巨頭に、チャレンジ枠として若手漫才コンビのB&Bが加えられた。

漫才ブームの夜明け

1枚の写真がある。それは、ステージ袖のモニターを見つめるやすし・きよしとセント・ルイス4人の姿。彼らの表情は曇っている。
それは、まさに今、ステージ上で漫才を披露中のB&Bの速射砲のような喋りへの警戒心からだった。彼らの眼中になかった若手漫才コンビが、その日最大の客席の笑いを取っていたからである。

この日の視聴率は関東で15.8%、関西で27.2%。B&Bは一夜にしてスターになった。
そして――漫才ブームの夜が明けたのである。

伝説の『THE MANZAI』

同年4月1日、後にフジテレビの伝説になるスペシャル番組が幕を開けた。
ステージセットは派手なネオンに、横文字の「THE MANZAI」のサイン。ナレーションはDJの小林克也サン。客席には「笑い屋」と呼ばれるおばさんたちではなく、若い女性たち。
登場する漫才コンビは、先の『花王名人劇場』で一夜にしてスターになったB&Bを筆頭に、当時は無名のザ・ぼんち、紳助・竜介、ツービートら若手コンビたち――。

同番組のプロデューサーは、あの横澤彪サンだった。とはいえ、当時は無名の一社員。若いころに労働組合に傾倒した彼は、70年にサンケイ新聞出版局に左遷させられるなど、長く不遇を極めていた。同番組は『火曜ワイドスペシャル』内で、ナイターの裏番組ということもあり、さして数字は期待されていなかった。

そして、これを企画・演出したのが、プロダクションのフジ制作に所属する佐藤義和サン。後に三宅恵介サンらと“ひょうきんディレクターズ”を結成する5人組の一人だが、当時は仕事がなく、暇つぶしに漫才の舞台を見て回っていたところ、面白い若手が数組いるのに目が留まった。いわば趣味を番組にしたようなものだった。
ところが――これが放送されるや否や、事態が一変する。

右肩上がりの視聴率

翌朝発表された視聴率は、予想を大幅に上回って15.3%。視聴者からの反響も大きく、そのほとんどは若者たちの声だった。
それを受けて、同番組は以後2カ月に一度のペースで放送される、視聴率は、17.2%、27.0%、28.8%と右肩上がり。暮れの12月30日の放送では32.6%と、ついに30%の大台を突破する。

1980年のテレビ界は漫才ブーム一色となった。それは若者たちのカルチャーであり、その中心には『THE MANZAI』があった。
そして――それをけん引するのは70年代にどん底を極めた、あのフジテレビだったのである。

富良野へ

一方、ドラマでもフジテレビに新しい芽が出ようとしていた。
1979年夏、かつて『三匹の侍』や『若者たち』を企画した白川文造サンは、フジプロダクションの中村敏夫プロデューサーらと共に、富良野へ出掛けた。
フジプロはフジのドラマ部門を制作するプロダクションである。中村プロデューサーは、かつて倉本聰サン脚本の『6羽のかもめ』を手掛けた人物だった。
そう、前編の終わりにも書いたが、白川サンが倉本聰サンとの世間話で、『大草原の小さな家』の日本版を富士山の裾野を舞台にやりたいと話したところ、倉本サンから「それなら富良野を舞台に書かせてよ。一度、富良野を見にきてよ」と逆提案を受けたためである。

富良野に着いた一行を出迎えた倉本サンは、自らジープを運転して案内した。
かの地には、雄大な北海道の自然が残っていた。木々の隙間からキタキツネが顔を出す。白川サンはとっさに写真を撮った。うっそうと茂る林の中はキツツキやフクロウの鳴き声がこだました。森の遥か奥深くには、エゾシカやヒグマもいるという。
気が付けば、白川サンはすっかり富良野に魅せられていた。

『北の国から』の企画書

東京に戻ってしばらくして、白川サンのもとへ倉本サンからドラマのシノプシスが送られてきた。東京での暮らしに挫折した男が、2人の子供を連れて生まれ故郷の富良野に戻り、大自然の中、たくましく生きる話である。注意書きとして「富良野の美しい四季を撮る」とある。
これに、白川サンは企画意図を加え、企画書に仕上げた。倉本サンのタイトルは、当時ヒットしていた、さだまさしの『関白宣言』をもじって『腕白宣言』だったが、これを白川サンは『北の国から』に変える。長年培われたテレビ屋としての勘だった。表紙には富良野で撮ったキタキツネの写真を貼った。

白川サンは企画書をまずフジプロの片岡政則社長に見せた。片岡社長はフジの総務局長で、白川サンの先輩にあたる。フジプロへ出向中の身であった。
「面白い。だが、まだ編成部長には見せない方がいい」
「どうしてです?」
「今に分かるから」

時に、『北の国から』のクランクインの1年前。1979年秋のことだった。

鹿内春雄登場

1980年5月1日、突如、フジテレビの緊急全体会議が開かれた。
「今、フジテレビは創立以来最大の危機に直面している――」
檄を飛ばしたのは鹿内信隆会長である。当時のフジテレビは月間視聴率でテレビ朝日にも抜かれ、民放キー局4位。評判になる番組もなく、社内の空気は最悪だった。
そんな中、鹿内会長はかの松下幸之助に倣い、自らを強化本部長とする大胆な人事異動を発表する。
「副社長に鹿内春雄を任命する。同時に本部長代理を兼任してもらう」

鹿内春雄――。
今日、フジテレビの中興の祖として、また若くして世を去ったため、その名は半ば伝説になっている。

異例づくしの新人事

春雄は信隆会長の息子である。時に34歳。通称、ジュニア。
彼のキャリアはなかなか興味深い。ボストン大に留学するも、中退して帰国。その際、病を患い3年間ほど療養する。1970年、ニッポン放送へ入社。途中、フジテレビの初代会長も務めた経団連会長・植村甲午郎の秘書を経験するなど帝王学を学び、77年にニッポン放送副社長。80年、フジテレビに転じたのである。

改革の要となる専務には、かつて「母と子のフジテレビ」のコピーを考案した、フジ草創期の功労者、村上七郎サンが就いた。“片道切符”といわれた出向先のテレビ新広島からの電撃復帰だった。
加えて、新たな編成局長には、現在もフジのトップに君臨する、あの日枝久サンが42歳の若さで抜擢される。

新しい人事は、全てが異例づくしだった。

“大制作局”の復活

80年6月1日。鹿内春雄新体制がスタートする。その最大の目玉は、10年ぶりとなる制作局の復活だった。
さかのぼること10年前、春雄の父・信隆が制作局を廃止して4つの外部プロダクションを設立したものの、それは出向社員の士気の低下を招き、下請け意識を助長するばかりで、フジテレビは暗黒の70年代を経験する。

会長の敷いた路線を否定するのは、ある意味、実の息子にしかできない荒業だった。
春雄副社長は、フジプロダクション(新制作を吸収済み)とフジ制作(フジポニーとワイドプロモーションが合併して誕生)を解散し、社内に300人規模の“大制作局”を立ち上げる。半分はフジの出向社員だったが、残る半分はプロダクションのプロパーの人間である。この時、春雄副社長が偉かったのは、このプロパー組を簡単な試験でフジの正社員に引き上げたこと。中には高卒の社員もいたという。

かくして、フジは学歴に関係なく、バラエティ豊かな社員がうごめくアグレッシブな組織へと変貌したのである。

『北の国から』始動

そんな春雄副社長の新体制は、あの『北の国から』の企画チームにも波及した。
なんと、白川文造サンが編成部の副部長へと昇進。そしてフジプロの中村敏夫サンは晴れてフジテレビの制作局の社員になった。
これは何を意味するか?
そう、中村プロデューサーが企画をプレゼンする相手が、当の白川サンになったのだ。もちろん、白川サンはGOサインを出す(元はといえば、自分が書いた企画書だ)。フジプロの片岡社長が「今に分かる」と言ったのはそういうことだった。

かくして、ドラマ『北の国から』が始動する。
ドラマの舞台は富良野の大自然。四季を撮るには、オンエアの1年前から撮影を始めないといけない。
1980年秋、富良野ロケが始まった。
それから1年と2カ月――田中邦衛や竹下景子、子役の吉岡秀隆や中嶋朋子ら俳優陣とフジテレビのスタッフチームは、かの地の四季を経験する。

オンエアは、1981年10月9日金曜日と決まった。裏はTBSの金ドラ、山田太一脚本『想い出づくり。』である。

昼の大改革に集結した5人

当時のフジテレビの最大のウィークポイントは昼帯だった。視聴率で「※」の日も珍しくない惨状だった。それすなわち、視聴率ゼロである。
かつてマエタケさんとコント55号で人気を誇った『お昼のゴールデンショー』は71年に終了し、それから9年間に実に9番組が始まっては消えていった。

そこで白羽の矢が立ったのが、先の『THE MANZAI』で漫才ブームを作った横澤彪プロデューサーだった。村上七郎専務曰く「アパッチ(奇襲戦法)でいいから、とにかく数字を」――と。

横澤サンは、『THE MANZAI』で組む佐藤義和ディレクターに企画を託す。佐藤サンは、同い年の三宅恵介サンとアイデアを練った。さらに年齢の近い永峰明サン、山懸慎司サン、荻野繁サンらを加えた5人で企画書を作成する。後の“ひょうきんディレクターズ”のメンバーだ。全員、フジの外部プロダクションのプロパー組だったが、春雄改革で正社員になったばかり。やる気に満ちていた。

そして、あの伝説の番組が生まれる。

『笑ってる場合ですよ!』で笑ってる場合に

1980年10月1日、フジテレビの昼帯に、新番組『笑ってる場合ですよ!』が始まった。
企画当初、考査部から「タイトルに文法上の誤りがある」と横やりが入るも、編成の「面白そうだ」のひと言で強引に押し切った。フジはすっかり自由な社風になっていた。

番組は、その年の4月にできたスタジオアルタからの生中継。客席には若い女性ばかりを入れた。彼女たちの若い感性が欲しかったのだ。
通しの司会にB&B。そして曜日レギュラーは、月曜日がザ・ぼんち、火曜日がツービート、水曜日が紳助・竜介、木曜日が春風亭小朝(後に明石家さんま)、金曜日がのりお・よしお――皆、勢いのある若手たちだった。

初回視聴率は4.5%。だが、その後みるみる上昇して、11月に入ると常時14~15%を稼ぐようになった。まさに「笑ってる場合」である。タイトルを通した編成の判断は正しかった。

王者『全員集合』に挑む

『THE MANZAI』、『笑ってる場合ですよ!』と、漫才ブームを背景に立て続けにヒットを飛ばした横澤サン。次に手掛けたのは、土曜の夜8時だった。
そう、王者『8時だョ!全員集合』(TBS系列)が長年君臨する、あの枠である。王者は当時、常時30%台のオバケ視聴率を誇っていた。

再び、あの5人組が集められた。ここに正式に“ひょうきんディレクターズ”が誕生する。彼らの戦略はこうだった。
「漫才コンビの枠を外し、シャッフルすることで笑いの化学反応を作ろう」
つまり、ツービートではなく、ビートたけしをピンとして使い、明石家さんまと競わせる。相方のビートきよしは、紳助・竜介の松本竜介、B&Bの島田洋八らと「うなずきトリオ」を結成させる――といった具合に。

かくして、81年5月、『オレたちひょうきん族』が始まる。
初回視聴率は9.5%と、王者『全員集合』にトリプルスコアを付けられるも、徐々に追い上げを見せる。その原動力は、ビートたけしと明石家さんまが対峙する「タケちゃんマン」のコーナーだった。

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ザ・ドリフターズの『全員集合』が子供向けの計算された笑いなら、『ひょうきん族』は若者向けのアドリブの笑いだった。
そう、80年代は笑いの質が大きく変わった時代でもある。元々、アドリブ芸はフジテレビが得意とした路線でもあった。ようやく、時代がフジに追いついたのだ。

1982年3月6日、歴史的な日がやってきた。『ひょうきん族』の視聴率21.5%、『全員集合』21.2%――ついに王者を追い抜いたのである。

戦友の死

1981年秋、ドラマ『北の国から』がクランクアップした。
1年2カ月にも及ぶ長期ロケは、まさにフジの社運を賭けたものだった。北海道の冬場の撮影は天候に左右されやすい。1日休止すると、それだけで百万円単位の予算が吹き飛ぶ。ロケの最終的な赤字は1億数千万円に膨らんでいた。

放送に先立ち、思わぬニュースが飛び込んできた。8月、脚本家の向田邦子サンが取材のために訪れた台湾で飛行機事故に遭い、帰らぬ人に――。
事故の第一報を富良野で聞いた倉本聰サンは言葉を失った。それはこの秋からTBSで『想い出づくり。』を手掛ける山田太一サンも同じだった。同年代の3人は、いわば戦友だった。金曜10時の倉本・山田の裏表対決は、向田邦子サンへの弔い合戦となった。

『北の国から』第1話

1981年10月9日、『北の国から』の第1話が放映される。そして3日後の月曜日の朝、前週の金曜夜10時台の視聴率が発表された。

〇日本テレビ『TV・EYE』10.5%
〇TBS『想い出づくり。』14.2%
〇テレビ朝日『新・必殺仕事人』15.6%
〇フジ『北の国から』16.4%

富良野の喫茶店「くるみ割り」で、東京の村上七郎専務から電話で視聴率を知らされた中村敏夫サンは、「ありがとうございましたッ」と受話器を持ったまま深々と頭を下げた。そして振り向きざまにテーブルに控える倉本聰サンや田中邦衛サンらに向かって両手を高々と挙げた。
「アンちゃん!邦サン!勝った!勝ちました!」
そう叫ぶと、その場に泣き崩れた。

ドラマ『北の国から』は、裏の『想い出づくり。』とよきデッドヒートを演じ、最終回は21.0%と有終の美を遂げた。視聴者からの反響は絶大で、放送後のビデオ販売は20数億円の利益を上げ、あっという間に赤字を解消した。
そして以後、20年間で8本のスペシャルが放送される国民的ドラマとなった。

『スタ千』から『なるほど』へ

フジテレビには、昼帯と並び、もう1つ長年の懸案事項があった。
それは、平日夜7時45分から放送される、旭化成一社提供の『スター千一夜』である。そう、フジテレビ開局の日に始まった、同局の看板番組だ。全盛期には30%台の視聴率を誇ったが、長年の金属疲労で近年は一桁に落ち込んでいた。

15分の帯番組の『スタ千』がゴールデンにあると、どうしても大胆な編成が難しくなる。フジにとっては同番組を終わらせ、旭化成には新たな枠を用意したいのが本音だった。だが、一社提供番組は単純に視聴率で判断できるものではなく、開局以来のフジと旭化成の関係もあり、非常にデリケートな問題だった。

これを、村上七郎専務と日枝久編成局長は1年がかりで旭化成を説得する。ついに81年9月、終了にこぎつけた。そして10月から火曜夜9時枠で、旭化成の新たな一社提供番組が始まった。『なるほど!ザ・ワールド』である。

『なるほど』が発明したフォーマット

同番組のプロデューサーは、かつて『クイズ・ドレミファドン!』を立ち上げた王東順サンである。高卒でフジテレビに入り、昼間働きながら、夜間の大学に通った苦労人で、番組作りに妥協しない姿勢は社内随一だった。

実は、『なるほど~』が発明したフォーマットは、今日のバラエティの基礎になっている。1つは、クイズの問題を情報・エンタメ化したことだ。同番組は、レポーターが海外から出題するスタイルだが、その出題自体が1つの情報バラエティだった。
もう1つは、スタジオでVTRを見て、芸能人が解答するスタイル。それまでクイズ番組といえば、視聴者参加番組が定番だったが、『なるほど~』は解答者を芸能人に変えた。その結果、スタジオ部分がトーク番組になった。
いずれも、今日のバラエティ番組では当たり前の手法である。

『なるほど~』は、開始から3カ月経った12月には視聴率を20%台に乗せ、翌82年春には25%を突破。そして83年末には36.4%の番組最高視聴率を記録する。

フジは『スタ千』という長年の懸案を解決したばかりか、新番組をヒットさせる二重の喜びに沸いた。

楽しくなければテレビじゃない

1981年秋、あの歴史的なキャッチコピーが登場する。「楽しくなければテレビじゃない」である。
このコピーは「母と子のフジテレビ」以来のインパクトとなり、80年代のフジテレビをけん引する。

事実、鹿内春雄体制となってからのフジは、社内が自由闊達な空気に満ちていた。何より、当の春雄自身が私生活からしてヤンチャだった。
ある日、こんなことがあった。春雄が六本木でナンパした女性が暴力団の幹部の彼女で、春雄が土下座させられる事態が起きる。翌日、副社長の失敗談は瞬く間に社内に広がった。
「ったく、ウチのボスはしょうがないなぁ」
社員たちは半ば呆れながらも、そんな愛すべきボスに次第に惹かれていった。

そうそう、他局と比べ、フジは社内のディレクターたちが若いのも幸いした。外部プロダクションのプロパー組は70年代前半に業界入りした者が多く、皆、30歳前後と脂が乗り切っていた。ちょうど他局が不況から新規採用を控えていた時期である。その代表格が、ひょうきんディレクターズの5人だった。

さて、時代はいよいよ、あの国民的バラエティの誕生を迎える。
『笑っていいとも!』である。

インテリ思想から生まれた『いいとも』

1982年になると、漫才ブームは息切れを見せ始めた。
それと同調するように、昼の『笑ってる場合ですよ!』もマンネリ化が目立つようになる。客席の大半はローティーンの女性たちが占め、彼女たちは出演者の些細なリアクションに笑い転げた。それは、横澤サンらが求める本来の笑いとは違った。
「そろそろ潮時かな……」

早速、次の番組の企画が練られた。『笑ってる場合ですよ!』は、ひょうきんディレクターズが企画を主導したが、今度は横澤サンのカラーで作られることになった。横澤色とは、すなわち「インテリ」である。そして一人の男がメインMCの候補に挙がった。
タモリである。

夜の顔から昼の顔へ

夜の密室芸人だったタモリさんを昼の生放送の帯番組に担ぎ出す――それは正気の沙汰ではなかった。だが、横澤サンには勝算があった。彼は既にタモリさんの型にはまらないトーク力を見抜いていた。
かくして、ゲスト自身が次のゲストを指名して出演交渉する、前代未聞の企画が生まれる。「テレフォンショッキング」である。

1982年10月4日、『笑っていいとも!』が始まった。前番組と同じくスタジオアルタからの生中継。今度は観覧客に「18歳以上」という条件をつけた。
曜日レギュラーも、インテリ好みの横澤サンらしく、各界から広く集められた。田中康夫、古舘伊知郎、中村泰士、大屋政子、渡辺和博、山本晋也、和田勉、金田一春彦――etc.

3カ月の予定で始まった新番組は、当初一桁の視聴率に苦戦するが、1カ月もすると10%を超えるようになった。番組は翌年以降も継続が決まり、年を越した1月、とうとう20%台に乗った。

フジテレビ、三冠王へ

死に体だった昼帯を甦らせた一方、長年ゴールデン帯の懸案だった『スタ千』を終わらせ、後継番組の『なるほど!ザ・ワールド』は大ヒット。さらには土曜夜の王者『全員集合』を『ひょうきん族』が逆転し、ドラマでは社運を賭けた『北の国から』が大成功――。
気が付けば、フジテレビの視聴率は上昇の一途にあった。

1982年末、フジは年間視聴率で、全日・ゴールデン・プライムの3部門全てで民放1位となり、ついに開局以来初の三冠王に輝く。80年6月の鹿内春雄新体制の発足から、わずか2年半で成し遂げた偉業だった。
そして以後、1993年まで12年間にわたり、これを維持するのである。

面白い番組は面白い人物から生まれる

僕はかねがね、面白い番組は面白い人物から生まれると思っている。
事実、TBSが全盛だった1960年代から70年代にかけて、同局は面白い社員たちであふれていた。ホームドラマの大家・石井ふく子サンをはじめ、『時間ですよ』の久世光彦サン、『ウルトラセブン』の実相寺昭雄サン、『8時だョ!全員集合』の居作昌果サン、『東京音楽祭』の“ギョロナベ”こと渡辺正文サン、『JNNニュースコープ』の田英夫サン――etc.

同じように、80年代のフジテレビもまた、面白い人材の宝庫だった。先に挙げた横澤彪サンをはじめ、ひょうきんディレクターズの5人、『北の国から』の中村敏夫サン、『なるほど!ザ・ワールド』の王東順サン、『夜のヒットスタジオ』の疋田拓サン――etc.
そして、この人もまた名物社員の一人だった。とんねるずの貴サンがよくモノマネをする“ダーイシ”こと石田弘プロデューサーである。

『オールナイトフジ』と『夕ニャン』

石田サンは70年代のフジテレビのどん底期に『リブ・ヤング!』なる若者向けの音楽ファッション番組をスマッシュヒットさせるなど、一貫して若者風俗に寄り添っていた。
その集大成ともいえる番組が、83年4月に始まった土曜深夜の『オールナイトフジ』であり、その高校生版として80年代半ばに一世を風靡した『夕やけニャンニャン』である。これが、石田サンのひとつの柱となる。

片や女子大生、片や女子高生――いずれも素人の女の子を使い、彼女たちのトチリまで計算に入れた番組作りは、型破りなフジのバラエティの中でも異色だった。女子大生のオールナイターズにアダルトビデオの紹介ナレーションを読ませるなど、今ならセクハラ問題に発展しかねないが、何せ時代がおおらかだった。

そんな石田サンのもう1つの柱が、とんねるずである。両者は『オールナイトフジ』からの仲で、1988年10月スタートの『とんねるずのみなさんのおかげです』がその集大成だ。何度か休止やリニューアルを経ながらも、今年で28年目を迎える大長寿番組となった。

目玉マークの登場

1985年7月、フジサンケイグループの全体会議は一種異様な空気に包まれた。
それもそのはず、並み居る役員たちの前に示されたのは、同グループの新しいシンボルマーク。それはフリーハンドで描かれた目玉焼きのようなデザインに、3本の毛が生えた異様な代物だった。

「なぜ、このマークを制定したかというと、肉筆であるということ。定規とコンパスで作ったものよりも、人間の感情のほうが遥かに力強いということ――」
この会議の1カ月前、春雄副社長はフジサンケイグループの議長に就任した。新マークはまさに彼の経営ビジョンを表すものだった。

そう、鹿内春雄の野望はもはやフジテレビ一社に止まらなかった。
彼は、テレビ・ラジオ・新聞・出版・映画・音楽――それらを結集した“メディアの覇者”を見据えていた。

夢工場と24時間テレビ

1987年夏、フジテレビの開局30周年を記念して、東京と大阪の2会場で『夢工場’87』なる大規模なイベントが催された。
それは、メディアの覇者たらんとする春雄議長の野望の第一歩だった。なんと、フジサンケイグループで“万博”をやるという。後援には、総務庁や外務省、科学技術庁ら省庁がお墨付きを与え、池田満寿夫や阿久悠、坂本龍一、浅井慎平ら各界の文化人たちがブレーンに加わった。

かくして『夢工場’87』はフジサンケイグループの総力をもって連日大々的に宣伝され、45日間で300万人の入場者を集める。大成功と言っていいだろう。

また、この年、フジの歴史上初めて「24時間テレビ」(後の『FNS27時間テレビ』)が放送された。『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』である。
司会は、タモリさんと明石家さんまサン。ひょうきんディレクターズが制作を担当したことから、日テレの『24時間テレビ』と違い、全編、笑いとシャレで構成された。夜中には、フライデー襲撃事件で半年間謹慎中だったビートたけしサンがサプライズ出演。お笑いビッグ3が一堂に会する一幕もあった。

この「24時間」の平均視聴率は19.9%。これは、その後30回にわたって放送される同シリーズにおいて、今もって最高視聴率である。

若きカリスマの野望

1987年8月25日、フジテレビは10月からテレビ業界初の24時間放送に踏み切ることを発表する。先の「24時間テレビ」の高視聴率を受け、深夜帯でも勝負できると判断したからである。
それはNHKをも出し抜く快挙だった。フジは名実ともに業界のリーディングカンパニーになろうとしていた。

新たに開拓される深夜帯は『JOCX-TV2』と名付けられた。それは、後にホイチョイ・プロダクションズ企画の『カノッサの屈辱』や、三谷幸喜脚本の『やっぱり猫が好き』など数々の名番組を生み出すことになる。

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プライベートでも、若きカリスマ、鹿内春雄は幸せの中にあった。81年にNHKから引き抜いた頼近美津子アナと84年に再々婚。既に2児をもうけていた。

時代はバブルを迎えつつあった。「メディアの覇者」たらんとする春雄の未来は前途洋々に見えた。
だが、その時すでに、彼の体は病魔に蝕まれつつあった。

若きカリスマが、その波乱に満ちた42年の生涯を閉じる、8カ月前の話である。

(後編へつづく)

(文:指南役 イラスト:高田真弓)

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