もう随分、ネットニュースやSNSなどで拡散されたから、ご存知の方も多いと思うけど、先の5月6日、イタリアはモンツァで歴史的なマラソンレースが開催された。それは――フルマラソンで2時間切りを目指すという壮大なプロジェクト。ナイキが主催する「Breaking2」である。
Breaking2――読んで字のごとく“2を切る”。現在、フルマラソンの世界記録は、2014年にデニス・キメットがベルリンマラソンで出した2時間2分57秒。ナイキの試みはその世界記録を3分近くも更新するというものだ。普通に考えれば無謀な試みに見える。でも――このレースは公認の大会とは異なり、ナイキの動画企画というのがミソ。
つまり、記録のためなら何をやっても許されるのである。
選ばれし3人の挑戦者たち
ナイキは、考え得る最高の選手たちを集めたという。
最終的に60名の候補者の中から選ばれたのは、前回のリオ五輪の男子マラソン金メダリストのエリウド・キプチョゲ、男子ハーフマラソンの世界記録保持者ゼルセナイ・タデッセ、そして最も過酷なレースと言われるボストンマラソンで2回の優勝経験を持つレリサ・デシサの3人である。
いずれ劣らぬマラソン界の超一流のアスリートたち。彼ら3人は7カ月間にわたり、ナイキから科学的なトレーニングを受けたという。
このプロジェクトの何がすごいって、超一流のアスリートたちに、フルマラソンの1シーズンを棒に振らせてまでも、非公認(記録が公式に認定されない)レースに付き合わせたこと。
もちろん、破格のギャラが支払われたのは言うまでもないが、それに加えて「2時間を切る」というフルマラソン界の“ムーンショット”(壮大な目標)が、彼らを突き動かした点は否めない。
つまり――これは夢のレースなのだ。
最適なコース、最適な時期
夢のレースに向けて、考え得る万全の環境が整えられた。
まずコースだ。最高の記録が出せるよう、最適のコースが選ばれた。そこは起伏がなくフラットで、スピードダウンを強いられる鋭いカーブもなく、周囲を木々に囲われ風の抵抗も受けにくいコース。なんと――F1が毎年開催されるイタリアのモンツァ・サーキットが選ばれたのである。一周2.4㎞のコースを17周するという。
事実、同サーキットは平均速度、最高速度共に、現在F1が開催されるサーキットの中で最速コース。クルマがそうなら、人間も同じという発想だ。
次に開催時期である。これも最高の時期が選ばれた。一般に、マラソンにとって最も適した気温は8~12℃とされる。そして風が少ない季節であること。
それらの条件を満たした時期として、レースは5月6日の早朝5時45分のスタートとなった。実際、当日は気温11.3℃、風速は0.0〜0.4km/hとほぼ無風。
かくして――レースに向けて万全の環境が整ったのである。
ランナーより多いペースメーカーたち
さて、いよいよレースである。
スタート地点。ランナー3人の前に6人のペースメーカーが配置される。なんとランナーの倍だ。彼らは3人横並びで、2列編成を組む。3列目にランナーが来る隊列である。これだとランナーは前からの風の抵抗は受けない。
しかも、彼らペースメーカーは全部で30人もいて、交代を繰り返しながら、常に5キロ14分13秒のラップを刻むという。彼らについていけば2時間を切れるというワケだ。
普通のレースだと、ペースメーカーは30kmでお役御免になる。しかし今回、彼らは42kmまでレースを引っ張る。そう、ランナーはラスト195mだけ自力で走ればいい。こんな変則的なペースメーカーは非公認のレースだから許されるのだ。
「補給」も変則的だった。通常は5km毎に所定の位置で受け取るのが国際ルール。しかし、このレースでは、コース1周(2.4㎞)毎に並走する自転車から丁寧にドリンクが手渡しされる。そのため、通常のレースにありがちなスタミナ切れや受け取り失敗などの非常事態も起きないのだ。
結果は…?
5月6日早朝5時45分、レースが始まった。その模様は、ナイキの公式Facebook をはじめ、YouTubeやTwitterなどのライヴストリーミングで全世界に配信された。
レースは18㎞手前でデシサが遅れ始め、続いて20km過ぎにタデッセが集団から離された。この時点で記録の更新はキプチョゲ一人に託される。35kmまでは2時間切りの可能性もあったが、そこからいわゆる「35kmの壁」に遭い、ペースダウン。
結果は――2時間25秒。惜しい! しかし、2時間こそ切れなかったものの、キプチョゲは世界記録を2分32秒も短縮する“新記録”を樹立した。もちろん、非公認の記録ではあるが。
ちなみに、動画の視聴者数は、Facebookライブで1日500万回を超える再生があったという。非公認のマラソンレースの視聴者数としては前代未聞である。
プロジェクトの意義
そもそも、このプロジェクトは何のために行われたのか。
先にも述べたように、表向きは「2時間切り」というフルマラソンの“ムーンショット”に挑戦するためである。
でも、同プロジェクトのスポンサーはナイキ一社。一企業がそれだけの理由で大金を投じるとは考えにくい。
答えは――「新商品の宣伝」である。今回、ランナーたちが履いたシューズは「ナイキ ズーム ヴェイパーフライ エリート」なるナイキの新商品。それは、ソールの中にバネの役目をするカーボンファイバープレートが搭載されており、通常のシューズよりも4%少ないエネルギーで同じスピードが出せるという。
「Breaking2」はいわば一社提供番組
要するに、同レースは「フルマラソンで2時間を切ったシューズ」という最高の売り文句で、新商品を宣伝するために企画されたのだ。
言うなれば、同プロジェクトは、長い、長いCMであった。いや、見方を変えれば、それはナイキが提供する2時間の一社提供番組だったとも言える。
そう、一社提供番組――。少々前置きが長くなったが、これが今回のお題である。僕は、この一社提供番組こそが、テレビの未来を語る上で、重要なキーワードになると考えている。そして、今回のナイキの「Breaking2」が、その先駆けだったとも――。
一社提供番組とは
一社提供番組って?
ご存知ない方に、簡単にその概要を説明すると――民放のテレビ番組は当然、スポンサーの予算で作られる。普通は数社が相乗りするものだ。提供テロップが出て「この番組は〇〇、××、△△……以上、各社の提供でお送りします」とアナウンサーが読み上げるアレ。
一方、一社提供番組の場合、番組タイトル明けに画面全体を使って、そのスポンサー名がデカデカと紹介される。大抵、社名の前にキャッチフレーズを付けて「水と生きる SUNTORY」とか「暮らし感じる、変えていく P&G」とか「小さなクルマ、大きな未来 スズキ」とか、そんな感じに。たまにアナウンサーではなくタレントが読み上げて、グレード感を出すこともある。
そう、これが一社提供番組。
要は、その番組の制作費その他を1つの企業が丸々抱えるというもの。いわば番組のパトロンだ。かなりの高額負担になるが、その分、番組内容に口出しできたり、番組を通して企業イメージを訴求できたり――といったメリットもある。
かつてテレビは一社提供番組ばかりだった
今でこそ一社提供番組は希少価値だが、その昔、1970年代までは、ゴールデンタイムの番組の大半は一社提供番組だった。
一例を挙げると――『ロッテ 歌のアルバム』(TBS)、『象印クイズヒントでピント』(テレ朝)、『東芝日曜劇場』(TBS)、『三菱ダイヤモンド・サッカー』(テレ東)――また、タイトルに社名がつかない番組でも、牛乳石鹸提供の『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)、ロート製薬提供の『クイズダービー』(TBS)、旭化成提供の『スター千一夜』(フジテレビ)等々。
ほら、見たことはなくても、番組名くらいは聞いたことあるでしょ?
なぜ、かつては一社提供が多かったのか。それは、番組制作費が今ほど高額ではなく、また、全国ネットの番組をスポンサードできる企業が今ほど多くなかったからである。
加えて、企業にオーナー社長が多かった時代背景も影響した。テレビの黎明期、局の上層部と企業の社長の個人的な関係で番組の提供が決まることも少なくなかった。テレビの古き良き時代である。
一社提供番組の減少
しかし、時代は進んで80年代へ。そのあたりから人々の娯楽が多様化し、テレビ番組もグレードアップ(例えば、クイズ番組の解答者が視聴者参加からタレントに変わるなど)を求められるようになる。結果、番組制作費が高騰する。
そうなると一社では賄いきれず、2社、3社と提供の相乗りが増えていった。さらに、90年代にバブル崩壊が起きると、企業の広告予算が削られ、この流れに拍車がかかる。時にオーナー社長も減り、社長のサラリーマン化も進む。
かくして、21世紀の一社提供番組は、各局とも数えるほどに減ったのである。
相乗り番組の功罪
え? 番組予算が増えるなら、別に相乗りでもいいだろうって?
――もちろん、制作費でいえばそうかもしれない。でも、コトはそう単純ではない。この辺りの構図は、映画の製作委員会方式とよく似ている。
70年代以前の一社提供番組全盛時代と、80年代以降の相乗り時代――。両者を比べると、大きく異なる点が1つある。それは「バラエティ」の増加である。
70年代以前、ゴールデンタイムは多様な番組であふれていた。クイズ番組、歌番組、子供番組、ドキュメンタリー、バラエティ――etc.それは一社提供番組だからできたことでもあった。
例えば70年代以前――ゴールデンタイムの民放では、毎日のようにドキュメンタリー番組を見ることができた。日立グループの『すばらしい世界旅行』(日本テレビ)をはじめ、トヨタグループの『知られざる世界』(日本テレビ)、住友グループの『野生の王国』(TBS)等々。また、30分の子供番組もあった。『カルピスこども名作劇場』(フジ)や『ライオンこども劇場』(TBS)である。
ゴールデンの8割がバラエティに
しかし、それが80年代以降、相乗りが増えた結果、ゴールデンの実に8割がバラエティになってしまったのだ。
その理由は――視聴率に関わらず、番組内容さえよければ継続できた一社提供番組と異なり――相乗りだと、ダイレクトに視聴率が番組存続を決めるからである。次第に、視聴率の取りにくいドキュメンタリーや子供番組が淘汰され、結果、コンスタントに数字の取れるバラエティが残ったのである。
そして気が付けば、テレビは多様性を失い、お茶の間の“テレビ離れ”が起きていたのである。
最長寿番組は一社提供ゆえ
ここで、そんな時代の逆風にもめげず、一社提供番組を続けるいくつかの事例を紹介したいと思う。
まず、現在放映中の全番組の中で、最長寿番組である『題名のない音楽会』(テレビ朝日)だ。東京12チャンネル(現・テレビ東京)時代も含めると、実に53年目を迎える。
かの番組は、開始以来、出光興産の一社提供である。東京交響楽団などが出演して、クラシックをはじめ、良質な音楽を届けるのが基本コンセプト。出光といえば、かの日章丸事件を起こした創業者の出光佐三氏が有名だが、実際、同氏が趣旨に賛同して生まれた番組であり、その志が今日まで連綿と受け継がれている。
同番組で感心するのは、佐三氏の「芸術には中断はない」という考えのもと、今に至るまで番組中にCMを挟まない姿勢を貫いていること。もはや番組提供というより、文化支援である。同番組の視聴率は3%以下と決して高くはないが、テレ朝は打ち切りを全く考えていないという。
今や新鮮な定時番組
次に、一社提供番組の利点として、今や貴重な「定時番組」の要素も強調したい。例えば、『日立 世界ふしぎ発見!』(TBS)がそう。こちらも31年目を迎える長寿番組だが、今やゴールデンでは貴重な定時番組である。
定時番組って?
――スペシャルではなく、レギュラーの1時間放送という意味合いだ。え? そんなの普通だろうって? いえいえ、今や民放のゴールデンタイムは、改編期でもないのにスペシャル番組が氾濫する惨状である。ひどい時は2週置きにスペシャル番組が放送され、もはや何がスペシャルかよくわからない。
結果、その弊害として、毎週決まった曜日の定時に番組を見るという習慣が崩れ、それもまた、テレビ離れの要因になっているのである。
毎週決まった曜日の決まった時間に会える安心感
その点、この『世界ふしぎ発見!』は偉い。なんたって、この31年間の放送でスペシャル放送は数えるほど。しかも、ナイター中継や他の番組で潰れることもほとんどない。この31年間、毎週土曜の夜9時から1時間放送というルーティンを頑なに守り続けているのである。
その結果、同番組の視聴者は圧倒的に常連客が多いという。そう、毎週決まった曜日の決まった時間に会える安心感。これぞテレビの原点。そして後番組の『新・情報7days ニュースキャスター』の高視聴率の要因にもなっている。
CM自体を楽しむ
今に始まったことじゃないが、最近は、タイムシフトで番組を見る人がとみに増えている。そこで問題となるのが、CMのスキップである。スポンサーにとっては、せっかく番組にお金を出したのに、肝心のCMがスキップされたのでは堪らない。それが積もり積もると――ひいては、民放のビジネスモデルの崩壊にも繋がりかねない。
とは言え、視聴者からすると、わざわざスポンサーに義理立てしてまでCMを見る理由もない。そこで発想の転換である。逆に、わざわざ見たくなるCMならどうだろう。つまり、CMを面白く仕立てるのだ。
実は、見過ごされがちだが、一社提供番組の利点の1つに、CMの面白さがある。通常の相乗り番組だと15秒や30秒のCMが多いが、一社提供番組では、そこでしか見られない60秒や90秒のCMが流れることがある。通常のCMに比べ、それはストーリーがあり、笑いがあり、感動があり――まるでミニドラマを見るような楽しさがある。
東京ガス・ストーリー
関東ローカルの番組に、毎週土曜日、テレ朝で朝9時半から放送される『食彩の王国』というものがある。東京ガスの一社提供番組である。
毎週、1つの「食材」に光を当て、その産地や調理法を通じて、その魅力を語るという番組だ。だが、同番組の楽しみ方はそれだけじゃない。CMだ。この番組でしか見られない東京ガスのCMが流れるのだ。それも90秒のCM。これが、ちょっとしたドラマより遥かに面白いのだ。
ほら、妻夫木聡と小西真奈美がトレンディドラマもどきの怒涛の展開を見せる「東京ガスストーリー」とか、お母さんが口数の少ない息子に弁当を介して愛情を伝える「家族の絆・お弁当メール編」とか、見たことありません? 中には、就活生の苦悩がリアルすぎると苦情が殺到して放送休止になった「母からのエール編」なんてのもあった。個人的には大好きなんですけどね。
天才・澤本嘉光の仕事
一連のCMをプランニングした人は、ソフトバンクの「白戸家」のCMや、映画『ジャッジ!』の脚本を手掛けた広告界の至宝――電通の澤本嘉光サンである。優れた広告人に贈られる「クリエイター・オブ・ザ・イヤー」を唯一3度も受賞した、とにかく凄い人なのだ。手掛けるCMが面白いのも頷ける。
最近では、渡辺えりサン演じる“おかん”と息子とのやりとりを描いた「家族の絆・母とは編」が実にいい。
それは、こんな内容だ。マイペースな母の生態を息子が淡々と語っている。アクが強すぎたり、時にうざく見える時もある。ラスト、就職した息子のネクタイを直す母。ふと、間近で見る母の顔に“老い”を感じて切なくなる息子――とまぁ、泣ける。
ちなみに、僕は毎週、同番組を録画して、中身を早送りしてCMを見るのが日課になっている。
テレビの未来を救うのは一社提供番組
どうだろう。かつては時代の大勢だった一社提供番組だが、その後、制作費の高騰などの時代の荒波を受けて次第に減っていったが――近年、また注目を浴びつつある。
それは、視聴率に左右されない最長寿番組だったり、常連客を大事にする定時番組だったり、CM自体が面白い番組だったり――いずれも、今のテレビ界が抱える問題点(視聴率至上主義/スペシャルの氾濫/CMスキップ)に対する答えの1つになっている。
そう、これから先――テレビの未来を救うのは、一社提供番組じゃないだろうか。
クリエイターの時代へ
そこで、最初に戻って、ナイキの「Breaking2」である。それは、ナイキの自社製品の宣伝目的ではあったが、フルマラソンの“ムーンショット”に挑み、多くの視聴者を魅了した。
そう、一社提供番組は、もはや既存のテレビメディアにこだわらないのだ。YouTubeなどのネット配信メディアを使って、いかようにでも作れる。そして――ここが一番大事なところだけど、先の東京ガスの一連のCMが証明したように、例えCMの延長線上であっても、面白い作品に仕上げさえすれば、それ自体が番組コンテンツになり得るのだ。
未来のテレビは一社提供番組ばかりに!?
将来、スマホやタブレットによるテレビ番組のタイム&プレースシフト視聴がスタンダードになった時、CMをスキップされない唯一の方法は――番組からCMを失くし、番組自体をCM化することである。
これなら、CMをスキップされようがない。
例えば、東京ガスのCMのように、スポンサーの商品を絶妙に取り込んだドラマ仕立てでもいいし、ナイキのマラソン・チャレンジのような夢のある企画モノでもいい。大事なのは――面白いこと。面白ければ、それが広告だとか、動画だとか、テレビ番組だとか、そんな旧態依然の“棲み分け”はどこかに吹き飛んでしまう。
俗に、制約がクリエイターの創造力を羽ばたかせるという。
そう、広告の要素を番組の中に“絶妙に”取り込んで、面白くする――それが彼らに与えられるお題だ。
未来のテレビは、クリエイターの腕の見せどころである。
(文:指南役 イラスト:高田真弓)