先の6月13日、女優の野際陽子サンが亡くなられた。テレ朝の昼ドラ『やすらぎの郷』に出演中の訃報だったので、驚かれた方も多かっただろう。僕もその一人だ。体調が悪いとは聞いていたが(実際、3月に行われた同ドラマの制作発表の会見ではメインキャスト中、ただ一人欠席した)まさかこんな急展開になろうとは。とはいえ、俗に「役者は舞台上で死ぬのが本望」とも言うし、81歳というお年を考えたら、それはそれで役者冥利に尽きるのかもしれない。長い間、お仕事お疲れ様でした。ご冥福をお祈りします。
さて、その野際サン。訃報を伝えるニュースで印象的だったのは、「1958年にNHKアナウンサーとして入局~」という経歴紹介に、ネット上で「え!野際さんって女子アナだったの?」という若い人たちの反応がチラホラ見られたこと。無理もない。もう半世紀以上も前のことだし、僕だって野際サンの現役アナ時代のことはリアルでは知らない。
女子アナブームの先駆けだった
実は野際サン、今日の女子アナブームの先駆けみたいな人だったんですね。NHKに在籍したのはわずか4年間だったけど、その間、最初の赴任地の名古屋で、観測史上最大といわれる伊勢湾台風(死者・行方不明者5000人以上)を生リポートして脚光を浴びたり、3年目に東京に戻ってからは朝のワイド番組『おはようみなさん』の司会を務めたりと、今でいう売れっ子女子アナの走りだった。
予想外の行動へ
ところが――ここから野際サンは予想外の行動を見せる。NHKに入って丸4年が経った1962年3月、突如同局を退職したのである。ならば、民放にでも移籍するのかと思いきや(当時はフリーアナという概念はまだない)、なんと女優デビューする。TBSの大山勝美プロデューサー(数多くの山田太一脚本ドラマを手掛けた名物Pですナ)に誘われ、同局のドラマ『悲の器』に出演したのである。これが上々の評判。そして、これをステップに映画にも進出し、華々しい女優活動をスタートさせたのだ。
だが、そこから野際サンは、さらに予想外の動きを見せる。女優業も3年目を迎え、軌道に乗ってきた矢先、今度は女優業を一時休業し、パリのソルボンヌ大学へ留学したのである。この時、30歳。留学期間は1年間だった。
そして、帰国時にはパリの最新モードファッションに身を包み、日本にミニスカートを持ち込んだ第1号と呼ばれる。なんと野際サン、ファッションリーダーにもなったんですね。
キイハンターでスター女優に
そして野際サンは女優業に復帰する。それが68年スタートのドラマ『キイハンター』(TBS系)だった。彼女の役は、秘密警察組織キイハンターの一員で、複数の外国語を操り、男勝りのアクションとセクシーさを武器にする元フランス情報局諜報部員。見事なハマり役だった。さらに野際サンは主題歌も歌い、同ドラマの視聴率は30%を超え、一躍スター女優となったのである。
結局、『キイハンター』は5年間も続き、野際サンは共演した千葉真一サンと結婚する。そして75年には38歳11カ月で出産して、当時の芸能人の出産最高齢記録を更新する。世の主婦たちに勇気を与え、これも大いに話題になった。
道を切り開いた先駆者
――いかがです? 売れっ子女子アナから女優業に転身し、海外へも留学し、ファッションリーダーとなり、ドラマの主題歌も歌い、お色気やアクションシーンも辞さず、視聴率30%のスター女優となり、共演したイケメン俳優とも結婚し、芸能界の高齢出産記録も更新――と、およそ世の女子アナたちが目標とするキャリアの道を全て切り開いたと言っても過言じゃない。
実際、野際陽子という偉大なる先駆者がいたから、その後の女子アナ出身者たちが芸能界で随分、ラクになったんですね。「元女子アナのくせに」なんて陰口を叩かれなくなった。野際サンが女子アナ界で果たした功績は計り知れないのだ。
「女子アナ」という呼び方
さて、ここで「女子アナ」という呼び方について1つ補足しておきたい。考えたら、不思議な言葉である。女性アナではなく、女子アナ。かといって、男性アナウンサーを「男子アナ」とは呼ばない。
実はその言葉、意外と歴史が浅いんですね。初出は、1987年7月にフジテレビが出した『アナ本』という本。この中で、自局の女性アナウンサーを「花の女子アナ14人衆」と呼んだことに端を発する。驚くべきことに、それ以前にメディア上で「女子アナ」なる単語が使われたことは一度もなかった。これは僕がわざわざ大宅壮一文庫で調べたから間違いない。
ちなみに、『アナ本』が発売された87年というと、フジに中井美穂アナウンサーが入社して、いわゆる「女子アナブーム」が幕開けた年。それ以降、今日に至るまで女子アナという呼び方がすっかり定着したのである。
女子アナ第1号
――という次第で、正確に言えば、先の野際陽子サンは「女子アナ」とは呼ばれていない。女性アナウンサーである。とはいえ、今や女子アナのほうが定着してしまったので、当コラムでは、あえて親しみを込めて、彼女たちを「女子アナ」と呼ばせてもらう。
次に、女子アナの歴史の話に移りたいと思う。日本で最初に女子アナが採用されたのは思ったよりずっと古くて、1925年のことだった。なんと大正14年だ。第1号の女子アナは翠川秋子サン。当時、開局したばかりの東京中央放送局(現・NHK)の総裁だった後藤新平に誘われ、入局したという。
まだラジオの時代である。当然、リスナーにアナウンサーの顔は見えない。しかし、翠川サンは大変な美人だったという。美人好きの後藤新平らしい話である。
だが、翠川サンはわずか1年で退職する。当時はまだ女性の社会進出は珍しく、先進的と言われる放送局でも、女子アナへの風当たりは強かったのだ。退職時、彼女は「男社会の犠牲になった」と語っている。ちなみに、この9年後、翠川サンは年下男性と心中する。女子アナ第1号の末路は悲劇的だった。
女子アナは時代の鏡
俗に、女子アナは「時代の鏡」と言われる。その時代時代の女性の地位が、女子アナという職種に反映されやすいからである。
先の話の続きでいえば、昭和の戦前、NHKが採用する女子アナは年に1人か2人に留まっていた。一方、男性アナは毎年二桁の採用。時代はまだまだ男性社会だったのだ。
ところが、ある年にその事態が一変する。時に1944年、昭和19年である。一気に13名もの女子アナが採用されたのだ。そう、太平洋戦争真っ只中。若い男子は皆、徴兵に取られ、国内の若者は女子しかいなかったからである。
ちなみに、その中の1人に、後にNHK朝ドラ『本日も晴天なり』のヒロインのモデルになった近藤富枝サンもいた。戦争末期、彼女たちは男性アナウンサーに代わり、国の重要な仕事である「放送」を担ったのである。
しかし、彼女たちの活躍期間は短かった。翌年、終戦を迎え、戦地に赴任していた男性アナたちが続々と職場に復帰すると、彼女たちはお役御免とばかりに、会社から肩たたきに遭う。近藤サンもわずか1年余りでNHKを去った。ここでも、女性が時代の犠牲になったのである。
TBSが女子アナをリード
戦後、女子アナの活躍の扉を開いたのは、意外にもNHKではなく、出来たばかりの民間放送のラジオ東京(現・TBS)だった。
1951年、同局は開局に際して15名のアナウンサーを採用する。うち6名が女性だった。3分の1だ。それは戦後、女性が参政権を得て一気に39名の女性の国会議員を生むなど、当時の目覚ましい女性の社会進出とリンクする。
一方、同じ年にNHKは31名のアナウンサーを採用するが、こちらは全員男性だった。なぜ、NHKとラジオ東京でこうも差が付いたのか。
――コマーシャルである。ラジオ東京は民間放送。NHKと違い、番組の合間にCMを流さないといけない。当時のラジオCMは生でアナウンサーが原稿を読むスタイルで、ソフトな語り口の女性が求められたのだ。黎明期の民放の女子アナの仕事は、コマーシャルメッセージが中心だった。
テレビ時代へ
だが、そんなNHKもようやく戦後の女子アナ採用の門戸を開く。時に1953年。そう、テレビ放送が始まった年である。そのテレビ1期生の女子アナの一人が、先日、7月5日に亡くなられた後藤美代子サンだった。
ちなみに、彼女たちが採用されたのは、テレビ放送が始まり、画面を“彩る”役割を求められたからである。後藤アナは大変な美人で、良くも悪くも「女子アナ=美人」という路線はここから始まる。
だが、当時の女子アナは男性アナと違い、ニュースなどの報道番組には携わらせてもらえず、専ら活躍の場は芸能番組や主婦向けの生活情報番組に限られていた。後藤アナも『N響アワー』の司会を担当した。
ちなみに、この5年後の58年に入局するのが、野際陽子サンである。
キャリア女性の先駆けだった
実は、1953年にテレビ放送が始まって、60年代の半ばあたりまでは、女子アナの待遇はそれほど悪くなかった。まだ、男性アナのアシスタント的な仕事が多かったが、その地位は保証されており、アナウンサーを一生の仕事と志す女性も少なくなかった。
当時は、女性の大学進学率が5%以下と低かった時代である。大卒で男性社員と同じ待遇で働ける女子アナは、貴重な働き口だったのだ。
ちなみに、この時期に女子アナになった方々に、元NHKの加賀美幸子サンや、元TBSの宇野淑子サンらがいる。いずれも定年まで勤められたことが、先の説を証明する。
女子アナ冬の時代へ
だが、1960年代の後半から、女子アナを取り巻く状況に暗雲が立ち込める。当時、テレビ業界はカラー化の真っ最中。各局とも設備投資から経費節減に取り組んでおり、TBSは制作の一部をプロダクション化して外部に出したり、フジテレビに至っては、制作部門の完全分離が図られた。
そんな中、女子アナ界隈もコストカットの嵐に見舞われる。例えば、TBSは68年に見城美枝子サンが入社したのを最後に、76年までの8年間、女子アナの採用を休止する。フジテレビも25歳を定年とする女子アナの契約社員化へと移行。ここに、女子アナ冬の時代が到来する。
ピンポンパンのお姉さんは女子アナだった
そんな中、フジテレビに一風変わった女子アナが誕生する。子供向け番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』のお姉さんである。歴代5人を数える彼女たちは、主に短大枠で契約社員として入社し、1年目から番組に出演した。そして5年の契約期間を終えると、番組の卒業と共に、フジテレビも退社した。その中の一人に、後に女優や司会者として活躍する酒井ゆきえサンもいた。
もはや、その存在は女子アナというよりタレントだ。後にフジテレビは女子アナをバラエティ番組に出演させるなどタレント化して、女子アナブームをけん引するが、そのヒントは、先駆者たる“ピンポンパンのお姉さん”にあったのかもしれない。
それはNHKから始まった
そんな次第で60年代後半から70年代にかけて、女子アナにとって冬の時代が続くが、ようやく風向きが変わり、彼女たちに追い風が吹き始める。それはNHKからだった。
1979年4月、NHKで新しいバラエティ番組が始まった。タイトルは『ばらえてい テレビファソラシド』。企画と司会は永六輔サンで、2人の女子アナも共に司会を務めた。それが、前述の加賀美幸子アナと、入社2年目の頼近美津子アナである。女子アナがバラエティ番組に出ることも、台本から離れてフリートークで話すのも初めての試みだった。全ては、かつて同局の伝説的バラエティ『夢であいましょう』の構成を手掛けた永六輔サンの作戦である。
そして、作戦は見事に当たる。同番組でピアノを演奏するコーナーを受け持った頼近アナは、その類い稀なる美貌も相まって、一躍ブレイク。NHKと民放を通じて、女子アナがアイドル的人気を博したのは、彼女が初めてだった。
吹き始めた女子アナの風
この頼近アナのブレイクを機に、「女子アナ」という職業に風が吹き始める。それまでも注目を浴びた女子アナはいたが、それは個々の人気であり、女子アナ全体に風が吹き始めたのは、この時からである。その流れはテレビ界全体に飛び火する。
丁度、女子アナ冬の時代が終わり、民放各局とも女子アナの採用を再開させていた時期で、逸材が揃っていた。民放の雄・TBSが三雲孝江アナに吉川美代子アナ、老舗の日テレが楠田枝里子アナ、モスクワオリンピックの単独放送権を獲得したテレ朝が宮嶋泰子アナに南美希子アナ、そして70年代に暗黒の10年を過ごしたフジテレビが――田丸美寿々アナだった。
女子アナキャスター第1号
そう、ここからは田丸美寿々アナの話である。
1978年10月――奇しくも『ばらえていテレビファソラシド』開始の半年前、フジテレビで画期的なニュース番組が始まった。日本のテレビ史上初めて女子アナをメインに起用した『FNNニュースレポート6:30』である。逸見政孝アナとWキャスターを務めたのが、当時入社5年目の田丸美寿々アナだった。
田丸アナは東京外国語大学卒の才媛。その美貌は入社時から評判で、そんな彼女が現場で体当たりリポートする姿はたちまち評判になった。時にはやりすぎて自民党や警視庁からお叱りを受けることもあり、彼女は一躍、時代の寵児となった。
とはいえ、そんなスター女子アナでも、その身分は一介の契約社員だった。そんな彼女に時代が味方する。ジュニアこと、鹿内春雄副社長の登場である。
80年代へ
1980年5月、フジテレビで大改革が行われ、鹿内春雄副社長を事実上のトップとする新体制が発足する。外部のプロダクションは全て社内に戻され、そのプロパー社員もフジの正社員となった。社内は活気にあふれ、フジの栄光の80年代が幕開ける。
だが、正社員となれたのは、全て男性社員。女性社員は引き続き契約社員のままだった。その状態があらたまるのに、意外な交友関係が機能する。キーマンは田丸美寿々アナと、前述のNHKの頼近美津子アナの2人である。
さて、その頼近アナ。80年4月にスタートした朝の『NHKニュースワイド』に、森本毅郎アナと共にWキャスターとして抜擢され、ここでも脚光を浴びる。同番組は、視聴率30%を超える大ヒット。
その時、この当代随一の人気女子アナを密かに狙う男がいた。フジテレビ副社長・鹿内春雄である。
華麗なる転身。しかし……
「頼近アナをフジテレビが引き抜いて、低迷するフジの起爆剤としたい――」
そんな春雄副社長の思いは、一人の女子アナに託された。田丸美寿々アナである。なんと、田丸アナと頼近アナは同じ東京外語大卒の先輩・後輩。しかも、頼近アナはNHKに入局する前から、先輩の田丸アナを慕い、進路を相談する仲だった。
そんな2人の信頼関係が実を結び、81年1月、頼近アナはNHKを退社する。記者会見で語った言葉は「自分の言葉で語りたい」だった。その移籍金は1000万円以上とも噂されたが、何より大きかったのは、フジテレビ初の女性の正社員として迎えられたことだった。なぜなら、それを機に社内の女子アナを含む契約社員たちが全員、正社員となったからである。
その後、頼近アナは春雄副社長に見初められ、84年に結婚する。しかし、二児をもうけるも、4年後に夫を亡くして未亡人に――。その後独立して、90年代には女優やコンサートプランナーなどで活躍するが、2009年に食道がんを患い、53歳の若さで死去。数奇な運命に翻弄されたアイドルアナの末路は、悲劇的だった。
バラエティ・アナの開花
話を80年代に戻そう。1980年、鹿内春雄副社長が登場して、大変革を遂げたフジテレビ。その成果は意外と早くやってきた。82年、開局初の年間視聴率三冠王に輝いたのだ。それをけん引したのは「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンに代表されるバラエティ番組だった。
中でも、『オレたちひょうきん族』と『なるほど!ザ・ワールド』は、80年代のフジの躍進を象徴する2大バラエティとして大いに人気を博した。さらに見逃せないのは、その躍進に少なからず女子アナも貢献したこと。前者が、山村美智子(現・美智)、寺田理恵子、長野智子ら「ひょうきんアナ」の3人で、後者がリポーターとして世界各国を飛び回った「ひょうきん由美」こと益田由美アナである。
そう、ひょうきん由美。『なるほど!ザ・ワールド』は、そんな益田アナの人気も手伝い、最高視聴率36.4%の大ヒット。彼女はレギュラーを務めた6年半でのべ69カ国を回り、勇退する。
そして、通常のアナウンサー業務に復帰した彼女は順調に出世を重ね、2015年にフジテレビ初の女子アナとして定年退職を迎えたのである。
さて――そんな風にバラエティ番組における女子アナたちの活躍もあって、80年代半ば、視聴率三冠王を重ねていくフジテレビ。だが、真の「女子アナブーム」は、実はこの後に訪れる。
時に、1987年7月。同局の開局30周年記念で放送された『第1回FNSスーパースペシャルテレビ夢列島』のエンディング。提供読みのために登場した4人の新人アナウンサーのしんがりを務めた1人の女子アナによって、その扉は開けられる。
中井美穂、その人である。
(中編につづく)
(文:指南役 イラスト:高田真弓)