恋愛映画の名手・今泉力哉監督が12人の女性との告白の記録を綴る連載『赤い実、告白、桃の花。』。
今回は、故郷の福島を離れ、名古屋の大学に入学。名古屋篇が始まります。
大学に入学して、まったく知らない土地で暮らし始めた。校舎の場所など、いろいろよくわからずに借りたアパートは大学からまあまあ遠くて、夏にはクラスメイトの川村浩司の家に居候していた。だらだらと過ごしながら、クラスメイト全員に出てもらう映画をつくったりしていた。タイトルはたしか『キチガイ』だった。10人の参考人。10人の警察。それぞれが取り調べをしていく中で、9人目の人が自白するという話だった。もう本当に誰にも見せられない代物だ。また、部活動にも所属した。大学といえばナンパなサークル活動、みたいなイメージがあるかもしれないが、なぜか自分はとある体育会系の部活に入った。しかも卓球ではない部活に。しかもやめずに4年間続けた。それについてはまた別の女性の回に書く。そんなこんなで普通の大学生活を送っていた。vol.3からvol.7までは名古屋篇。大学の4年間で好きになった人たちについて書いていく。
大学1年の1月31日。
明日は私の19歳の誕生日だった。
クラスの友達や、研究生(男。25歳くらい。女性経験豊富)などと4、5人で通称“川村邸”で飲んでいた。だいぶ深い時間まで飲んでいて恋愛話になった。知らぬ間に日付が変わり、私はぬるっと19歳になった。19歳の私は童貞だった。そりゃそうだ。彼女がいたことがなかった。
大学1年の夏くらいから私が転がり込む形で、川村浩司と彼のアパートで2人暮らしが始まった。ぼろいアパートの2階。玄関、6畳のキッチン、4畳半の和室、6畳の和室が縦並びの家は、あきらかに一人暮らし用だった。大学の校舎からほど近いその家は、一種のたまり場と化し、みんなから、川村邸、と呼ばれていた。風呂はあるが使用せず、大学にあるシャワー室を常用していた。川村浩司は料理、洗濯、掃除、ゴミ出しとなんでもやってくれたから、4万2千円の家賃は、私が3万円(ある種、家政婦付き)、川村が1万2千円と分けられていた。一度、彼が私の服をポケットに入った携帯に気づかず洗濯してしまったことがあったが、謝るのはこっちのような気がした。彼はノイズ?とかの音楽をやっていて、ボアダムスや山本精一、暴力温泉芸者、映画監督の若松孝二などは、すべて彼から教わった。彼は長野出身だった。
話は戻って。
「なんで童貞なの?」
「りきや、ぜんぜんいけるよ」
「好きな人いるなら、いけばいいのに」
「告白したらいけるって」
など、夜中のノリで適当に持ち上げられた。まったく無根拠に。無責任に。
そして、みんな次々に寝落ちしていった。私はまったく眠れなかった。ずっとある女性のことを考えていた。え、本当にいけるのか。告白したらいけるのか。そんなことがあるのか。あるわけない。でも告白しよう。そうしよう。今日しかない。私は19歳だ。20歳は目前だ。
今でも使われている言葉かどうかはわからないが、やらはた、という言葉がある。やらずに、はたち。童貞のまま、成人することだ。これはなんとなく男を二分する言葉だった。やらずに20歳になるか。20歳になる前にやるか。だからってもちろん、適当に告白した訳ではない。でも、頭のどこかには、この言葉があったことは否めない。
朝7時。みんなが爆睡する中、家から出て、ひとりの女性に電話した。「し」さん。彼女に電話したのは初めてだったと思う。なぜか番号を知っていた。彼女は学科こそ違うが、同じ学部の子だった。彼女のクラスの2限が今日(2月1日)休講になったことを昨日(1月31日)、学校の掲示板で見たことをなぜか鮮明に憶えていた私は、その時間帯に彼女にその休講になった教室に来てほしいと話した。彼女は「はい」と言った。
部屋に戻った私は、たくさんの男たちがころがっているのを踏まないようにしながら、もといた場所に横になって、何事もなかったかのように目を閉じた。しかし、眠れるはずがなかった。
201。
たしか201という教室だった。その休講になった教室に「し」さんを呼び出した時間より1時間くらい早くついてしまった私はそわそわしていた。なぜか教授が立つところに立ってみたり。あちらこちらに座ってみたり。告白の練習をしてみたり。入り口に対してどこに座ってどっちを向いているのがいいのか考えてみたり。窓の外で生い茂った木々が風に揺れていた。鳥もいた。2月なのに。今思うとあれは常葉樹だったんだな。
時間になって、「し」さんがやってきた。
「どうも」などと話した。「いきなりごめんなさい」とか、「実は前から気になっていて」とか、「好きです。つきあってください」とか話した。彼女はとても驚いていて、嬉しそうかはわからないけれど、楽しそうだった。つまり好感触だった。彼女は、その場ですぐには、OKもごめんなさいもしないでくれて、そのかわり30分か1時間か、いろんな話をした。でも、終始、えー、みたいな感じで、なんでー、みたいな感じだった。もう、つきあえなくてもいいや、って思った。こんなに優しいひとを好きになれてよかったし、その時間がしあわせだった。私が告白した時、「し」さんには彼氏がいなかった。いろいろ話したあと、最後に「し」さんは「すこし待ってください」と言って、201をあとにした。
その日の昼休み。朝方まで一緒だったみんなにメールした。
「今日の夜、おもしろい話があるから集合」
夜。また学校近くの別の友達の家に集合した。
告白したことを告げると「まじで?」「え、『し』さん?」「ばかじゃない?」みたいな空気があった。でも、みんなで楽しげに飲んでいて、「で、結果は?」「どうだったの?」など、いろいろと聞かれた。私は言った。「すこし待ってと言われた」と。それからみんなでいろんなバカ話をしながらたくさんお酒を飲んだ。でも、私はずっとひとつのことがひっかかっていて、陽気には飲めなかった。それでみんなに聞いた。
「あのさ、『すこし待って』ってどのくらい待てばいいんですかね?」
正直、明日からも授業で顔を合わせるのだ。「すこし」が具体的に知りたかった。「このまま、ずっと放置されるってこともあるんですかね?」など、その返事を待っている期間がどのくらいなのかを私が知りたがれば知りたがるほど、まわりの友達は笑っていた。私は「うぉー」とか言っていた気がする。「うぉー!わかんねぇー!」とか叫んでいた気がする。「すこし」ってものすごく曖昧で残酷だ。
数日後。彼女からOKをもらった。なんと言われたか、どこで言われたかは憶えていない。電話だった気もする。でも人生ではじめて彼女が出来た。嬉しかった。しかし、長続きはしなかった。
彼女ができて、はじめてわかったことなのだが、私はひとりでいることの安定感が好きな人だったのだ。“彼女がいる状態”というのは“ほかの誰かを好きになってはいけない状態”である。そんなこと考えてつき合っている人はいないと思うのだが、でも実際そうだ。それがなんとも居心地が悪かった。ひとりの時が長過ぎたのかもしれない。彼女がいるという状況が気持ち悪かった。好きだった。本当に好きだったのに、彼女とすごすより男友達と麻雀する方が楽しかった。彼女の家は基本的に女性しか住めないアパートで、その家に遊びに行くスリルは楽しかった。基本的には男がはいってはいけない空間なのにそこに行ったり泊まったりしていた。でも、普通の恋人同士がする、そういう行為はなかった。お互いにはじめてだったから、というのもあるかもしれない。いや、向こうがはじめてだったかは知らないのだが。キスすらしなかった気がする。したかな。今思うと、彼女はいやだったろうなと思う。家に来るのに何もしない彼氏である。自分のことを好きじゃないのかな、と思われても仕方がなかった。そして実際、私は彼女を好きでなくなっていった。理由はわからない。ろくにデートもしなかった気がする。何度か映画を見にいった。はじめてのデートで見た映画が『ストレイト・ストーリー』だったのはやっぱり間違いだったと思う。『ファイト・クラブ』もたしか彼女と見た。一度、名古屋駅の基幹バス乗り場が駅の外の2階にあったころ、そこに向かう階段の途中で彼女が転んで転がり落ちたことだけは鮮明に憶えている。あとはなんとなく、紫とオレンジの人だったのを憶えている。彼女はその色のイメージがあった。あと、彼女は静岡出身で、うち、とか、うちっち、と言う方言を使った。自分のことを、うち、というその方言はとても可愛かった。でも、なんでだめになったのだろう。具体的になにかあったわけではないけど、つきあってから3カ月くらい経った時、彼女の家で別れ話をした。
彼女の部屋の壁に2人でもたれかかり、お互いに体育座りをしていた。私が右。彼女が左。向かいの壁にはテレビやCDコンポなどがあった。
彼女は「別れたくない」と言った。
私は「ごめん」と言った。
しばしの問答があり、ふたりとも黙った。
彼女は泣きだし、すすり泣きだけがこの空間を支配するはずだった。
しかし、そうはならなかった。
別れ話が突然だったのか、別れ話をするのは決まっていたのにそうなったのかはわからないのだが、その空間には音楽が流れていた。MDかCDかはわからない。でもある曲が永遠にリピート再生されていた。
「ぼっくらのうまれてくる、ずっとずっと前にはもう〜」
アポロである。ポルノのアポロが、約4時間。1曲リピート再生である。ひととおりの別れ話を終え、ふたり壁にもたれかかって座っている空間に、
「ぼっくらの」「ぼっくらの」「ぼっくらの」「ぼっくらの」
「ぼっくらの」「ぼっくらの」「ぼっくらの」「ぼっくらの」
その「ぼっくらの」のせいで、あまり聞き取れないくらいの音で彼女は鼻をすすったりしていた。どれくらい経ったのだろう。お互いに疲れて果てていたのはわかるが、彼女はそのまま、寝落ちした。すぴー、すぴー、という鼻息が聞こえたとき、「寝てんのかいっ!」と思ったが、ものすごく安堵した。まだ2時くらいだったと思う。それから朝の5時くらいに彼女が目覚めるまで私はずっと曲を聞き続けていた。彼女が起きた時、私は「大丈夫?」などと白々しくも声をかけ、じゃあ一旦距離を置こう、みたいな話になった。なったらしい。あまり憶えていない。だから、私はこれで別れたものだと思っていた。帰り道、自転車を押して歩きながら、号泣した。自分が本当に情けなかった。自分がしている行為がどれだけ最低なのだろうと思って、その罪悪感から号泣していた。卑怯だなあと思った。数年後、大阪に住んでいた私は、映画『ジョゼと虎と魚たち』を映画館で見た帰り道、このときのことを思い出して、思い切り泣きながら帰った。劇中の妻夫木君がこの時の自分とあまりに被ったのだ。自ら好きになって、近づいて、告白して、つきあって、でも、自ら離れる身勝手さ。でも、そんなこと、これ以降も何度も繰り返すのだけど。ちなみにこの“別れ話、からの、寝落ち”は拙作『終わってる』でそのまま使っている。シリアスな場面でのいびきは、妙にリアルでしかも笑える。
それから1週間くらい経って、彼女から電話がかかってきた。「一旦、距離を置くって話だったけど、やっぱり別れよう」と言われた。私はてっきり別れたつもりでいたので、この電話を受けたとき、「え、別れてなかったの?」と思った。でもそんな素振りは一切見せずに、神妙な声で、「うん。ごめん」と言った気がする。最低ですね。
その後、大学2年になってか、ならずか。彼女は休学し、その後、大学をやめた。
私たちが通っていたのは、芸術工学部という名の学部で、例えば絵を描く人もいれば、建築を志す人、映画や映像、音楽、またプロダクトや都市設計を目指す人などが通うところだった。そんな学校を彼女がやめた理由は、パン屋さんになりたいから、というものだった。友達伝いに聞いた。私との別れはまったく関係ないと思う。別に私はパンを好きでも嫌いでもなかったし、彼女がパンを好きなことも知らなかった。そして、これは本当にとってつけたようなオチなのだが、大学を辞めたか一時的に休学していた時期だったかはわからないが、パン屋さんになりたいと言って学校を去った彼女は、しばらくの間、大学の近くに新しく出来たおにぎり屋さんでバイトをしていた。それを知ったとき、なぜか、彼女を好きになってよかったと思った。
彼女と別れた後、少しして、私はまたほかの人を好きになった。
それは彼女のクラスメイトだった。そしてちょっと複雑なのだが、私は、その子から恋愛相談をもちかけられたりもするのだった。ある人から告白された彼女は、つきあった方がいいか、断った方がいいか、私に相談してきたのだ。その子に告白したのは件の研究生だった。
(つづく)
(文:今泉力哉)
今泉監督の最新作『退屈な日々にさようならを』が新宿K’s cinemaにて上映中!
連日トークイベントなども予定されています。