2017年9月2日21時30分。
今、私は南阿佐ヶ谷駅付近のデニーズにいる。ここは2012年に山下敦弘監督と共同監督した『エアーズロック』というドラマの脚本打ち合わせで来た思い出の場所だ。
ここ最近、妻と私はあまり仲がよくない。
なぜなら私の稼ぎがとても不安定だからだ。不安定というよりも、正直、少ないからだ。
それでも一生懸命、映画に向き合っていたり、アルバイトをしていたり、家のこと(家事や子育て)を積極的にしているならともかく、今私が何をしているかと言えば、人生初の演劇に出演している。ナカゴー『地元のノリ』でカッパを演じている。明日が楽日。妻は私がこの舞台を終えるのを心待ちにしている。妻には私が遊んでいるように見えるのだ。月から金、朝から夜まで働き、掃除、洗濯、子供の保育園迎え(送りだけはなんとか私がやっている)、ご飯など、すべてを妻がおこなっている。
さらには、実は現在進行形で、我が家族には一軒家を買う計画があり、その細かいやりとり、見積もり、ローンの様々な書類、図面、そういった様々なやりとりもほぼすべて妻がおこなっている。その間、私はカッパを演じている。私はナカゴーという劇団のいちファンで、以前から主宰の鎌田さんとちょっとした接点があり、この度オファーをいただいた。もちろん妻に相談してOKをもらい出演しているのだが、妻はお芝居に出るということがどういうことか、わかっていなかったんだと思う。とにかく一生のうち長い時間を過ごすであろう家を建てること、また毎日のこどもの世話や家庭のこと、それを妻にすべて任せて、私はカッパを演じている。
妻は(なぜこんな男と結婚してしまったのだろう)と結婚してから、何度も思ったことだろう。
私たちの出会いは、ENBUゼミナールという映画学校の事務スタッフと生徒という関係だった。その頃の私は映画館バイトでの生活に限界がきていて、たまたまつながりがあって(その繋がりも山下敦弘監督がENBUゼミの俳優コースの講師をしていて、つくった映画の編集を私が任された、という縁だ。山下さんには頭があがらない)、スタッフに空きができたENBUゼミナールに就職した。面接は15分もかからなかった。2007年10月。私は人生初の正社員になった。
よく、スタッフが生徒に手を出した、みたいに言われることがあるので、先に言い訳させてもらうと、妻は4月に入学していて、私が働きだした時にはもう学校にいた。入学時から知っている場合は生徒という感じがするが、私の方が後からその学校に関わりだしたため、生徒という感じはしていなかった。私も自主映画をつくっていたし、どちらかと言えば、生徒というより後輩のような感覚だったのかもしれない。まあ、言い訳だが。
当時、神楽坂に一匹のウサギと住んでいた妻は、看護師のバイトをしながら映画学校に通っていた。その才能は素晴らしく、専任講師の古厩さんにも卒業制作を褒められたりしていた。
学校には卒業制作や何か自主映画をつくる際のスタッフ募集やキャスト募集などに使用できる掲示板があった。卒業制作をつくる際に、妻はその掲示板に連絡先を書いた紙を貼っていた。確か、ロケ場所を探していたかなにかだった。私はその連絡先をメモして、連絡した。もちろん事務局で働いているから生徒の連絡先などの名簿もすべて管理している。でもそれを使うのはズルだ。公開されているものをメモして連絡するのはズルじゃないだろう。もし下心があったとしても。そして私と妻は卒業制作の相談に乗ったりしているうちに仲良くなっていった。
2007年12月25日の夜。
はじめて彼女の家に行った。それこそ終電とかの時間帯に行った気がする。まだつきあっていなかったのに泊まる気だったのだろう。初めてあがった彼女の家で結構深くまで卒業制作の映画の準備の話をした。そして寝ることになったがもちろん何もなかった。朝になって私は帰った。彼女の家は臭かった。というのも、生き物を飼っていたからだ。ウサギ。名前はラズベリー。ラズ、と彼女は呼んでいた。それから何度か彼女の家を訪れ、ちょうど元日あたりにつきあうこととなった。彼女は無事卒業制作を完成させ、映画は上映された。私たちはつきあっていることを公にはしていなかった。しかし、卒業上映イベントの打ち上げ時に、私たちがつきあっていることを見抜いた学校の講師の映画監督がいた。篠原哲雄監督だった。
それから9カ月後。2008年の9月。
私たちは一度だけ、別れかけた。私から「別れたい」と言った。その年の水戸短編映像祭で私の映画『微温(ぬるま)』がグランプリを受賞したことがきっかけだった。彼女は何とはなしに私に言った。
「(好きな人が出てる映画がグランプリをとって)また気持ちが戻っちゃうんじゃないの?」
私は妻に限らず、誰かとつきあったら、それまでにつきあっていた人のこと、また好きだった人のことをすべて話すことにしている。なぜなら、つきあっているうちに、友達や過去のバイト仲間などから、昔の彼女や昔好きだった人の名前が出たりした時に、不快な思いをさせたり、不安になったりしてほしくないからだ。これってまあ自己満足で、別に相手が知りたがっていない場合も全然ある。でも、こうしておくことが誠意というか、まあ後々の面倒を避けられるひとつの方法だと私は思っている。だから、妻は、それこそこの連載に登場した11人の女性のうち9人くらいの名前は知っているのではないだろうか。少なくとも、つきあった4人については確実に知っている。そして、当然、直前まで好きだったvol.11の「お」さんの存在を知っていたし、『微温』に出ていることも知っていた。2回告白したことだって、界隈ではネタのようになっていたから知っていた。それでの発言だった。私は本当に頭に来た。そしてがっかりしたのを憶えている。冗談でもそんなことを言われるのは嫌だった。だって今後も男性女性に限らず私は自分が魅力的だと思う人をキャスティングして映画を撮っていくだろうし、それをこんな感じで揶揄されたり、もしかしたら本気で嫉妬されたりするようであれば、もうつきあっていくのは難しいのではないか、と思ったのだ。それで映画祭の数日後、別れたい、と電話で伝えた。
最後のデート、というか、別れるために会った日。
私たちは神楽坂のカドというお店にいた。お昼ご飯を食べながら、別れ話をする予定だった。私は普通に御膳を注文し、妻は飲み物しか頼まなかった。そして、一言も会話せずに食事を終えた。妻は途中から静かに泣いていた。
店をあとにして。神楽坂のいかにも神楽坂らしい細い裏路地の曲がり角で私たちは話をするために立ち止まった。その手前のアパート風の飲食店の鉄階段に猫がいたのを憶えている。私たちは別れるかどうかをもう一度話し合った。もし私が若かったら確実に別れていたと思う。後日、このとき別れないことを選んだ私は、vol.6の「こ」さんとの別れのことを思い出していた。あの時は泣かれても別れたのに今回は泣かれて別れられなかった。それは何なのだろう、と。とにかく、カドで飲み物しか飲まずに静かに泣く彼女を見るのは心苦しかったし、静かに泣く彼女を見て、可愛い、と思ってしまったのだ。だから裏路地を歩いている時には「やっぱ別れるのをやめよう」と言おうと心の中では決まっていた。日和ったなあ。年取ったなあ。そう思った。当時27歳。今思えば、私はあの時、年取って、日和って、よかったな、と思う。だって、それで結婚できたのだから。
(文:今泉力哉)