ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

vol.4 映画公開も、生活保護

連載4回目です。AVメーカー「ハマジム」に所属しています、ドキュメンタリー監督の岩淵弘樹です。33歳です。私はハマジムでPGbyHMJMというサイトの編集長をやってます。このサイトはハマジムのAVが見放題(18禁・有料です)なのと、平日は毎日更新で刺激的なコラムや記事をどんどん更新している最高のエロサイトですので、ぜひ一度ご覧になってください。

さて前回は香港でカマ掘られそうになった話を書きました。今回は『遭難フリーター』の劇場公開とその後の話です。
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劇場が決まったのに配給がいなくなった

2006年3月から2007年3月まで埼玉県本庄市のキヤノンの工場で派遣社員として働く自分を撮影し、実家の仙台に戻り、2007年5月までに編集して『遭難フリーター』は完成した。

それを山形国際ドキュメンタリー映画祭に応募したところ、日本の現状を伝えるプログラム内での上映が決まり、2007年10月に映画祭で初上映することが出来た。

その上映を見てくれた東京の配給会社の方が劇場公開に向けて話を進めてくれ、東京の渋谷ユーロスペースの支配人が上映しましょうと返事をしてくれた。

だが、そこで最初に声をかけてくれた配給会社の方がいなくなってしまい、映画館は決まっているが配給会社が決まっていない宙ぶらりんの状態でしばし時間が過ぎた。

その間、自分は仙台でインターネット回線の営業と深夜の居酒屋バイトをしていた。自主配給という形で上映をするしかないのか……。そうすると仙台でバイト生活などしていられないし、そもそも宣伝するためのお金もない。どうするべ……。とふわふわした気持ちで時間が過ぎていった。

再び東京へ

そんな日々を過ごし、約1年。2008年の夏頃に、新しい配給会社が声をかけてくれた。ユーロスペースの支配人の北條さんが「こんな映画があるんだけど」と紹介してくれたらしい。渡りに船というか、突然目の前が開けた。

しかもそのタイミングで、東京の友人が新しく家を借りるからルームシェアしないかと誘ってくれた。再上京するには絶好の条件が揃った。前回は埼玉での生活だったが、今回はやっと東京に住むことが出来る! 周りの好意に甘えてばかりだが、こうしてやっと再スタートを切ることが出来た。

出版決定、NHKからの横ヤリ

2008年、夏。上京し、中野の一軒家で新生活スタート。仕事はまた派遣会社に登録し、パソコンのレンタルサーバーを電話で営業する仕事が決まった。時給は1500円。18時には仕事が終わるので夜は映画の宣伝活動が出来る。さらに、大学時代から世話になっている作家の雨宮処凛さんが太田出版を紹介してくれて、埼玉の派遣社員時代に書いていたブログを編集者の落合さん(『完全自殺マニュアル』の編集も務めた伝説的な編集者)に読んでもらったら書籍化が決まった。こうして映画とバイトの二重生活がはじまった。

だが、また新たな問題が起こる。『遭難フリーター』の劇中でNHKの社員さんを撮影しているのだが、このシーンは使わないでくれとNHKから内容証明が届き、配給会社の姿勢がグラつきはじめたのだ。「もしかしたら『遭難フリーター』は公開出来ないかもしれない…」

すでに試写会は何度も開かれ、派遣社員自身が撮ったドキュメンタリー映画という形で新聞や雑誌やテレビで取り上げられはじめていた。NHKのシーンはカットしなければいけないのか? いや、撮影時に許可は取っているし、「映画で使いますよ」「いいですよ」というやり取りも撮影している。どうなるのか……。

すると、配給会社の宣伝チームが会社を辞め、新会社を設立して引き続き配給してくれることになった。この経緯は、配給会社東風の木下さんがインタビューで話してくれているので、こちらをご参照いただきたい。

一つの映画を巡ってたくさんの人を巻き込んでしまっていることに、当時は無自覚だったと思う。25歳だった自分はあまりに無力で、無知で、周囲の大人たちの仕事を見守ることしか出来なかった。

「おめえの言い分が通るわけねえだろ!」

そんな折、テレビの制作会社の方から「ウチで働かないか?」とお誘いがあった。NHKの「日曜美術館」のような現代アートを紹介する番組のADで、『遭難フリーター』の劇場公開が目前だったことから、宣伝活動をしながらでも働いていいよ、という好条件だった。この先、映画で食っていけないことは重々承知していたので、映像の仕事で食っていくための足場を固めたいと思っていた。香盤表を作ったり、ロケハンに出掛けたり、アナウンサーにナレーションの依頼をしたり、テレビ番組を作るノウハウを一から教えてもらいはじめた。

だが、ADの仕事をはじめて1か月。宣伝活動が忙しくなりはじめたタイミングで、「女子大生がわちゃわちゃする番組」のADもやってほしいとプロデューサーに言われた。「いや、あの、来週は大阪に映画の宣伝活動で行かなきゃいけないんで、新しい仕事をする余裕がないです」と正直に話したところ、「おめえ何様だ! 会社に入ってんだからおめえの言い分が全部通るわけねえだろ!」と怒鳴られた。それで俺もプツンときてしまって「じゃあ辞めますよ!」とその場で言ってしまい、1か月でADの仕事は辞めてしまった。

ついに劇場公開も……

2009年3月。渋谷ユーロスペースで『遭難フリーター』の劇場公開がはじまった。関西テレビと、テレビ朝日と、香港のテレビ局が自分を密着しており(それほど当時は格差社会と雇用問題が取り上げられていた)、メディアへの露出は増えていた。しかし映画の来場者は少なかった。ほぼ毎日映画館に行って、上映後のお客さんに「ありがとうございます」と挨拶しに行ったが、みるみる観客は減っていき、終盤はお客さんが一人の回もあった。

無職の状態ではあったが、コラムを書く仕事が不定期であったのと、『遭難フリーター』の自主上映会が地方で行われ、そこで講演した際のギャラをもらっていたので、月に10万円くらいは収入があった(書籍の『遭難フリーター』の印税が約50万円入ったが、これは今まで散々世話になっていた母親に送った)。しかし、雇用問題が取り上げられる機会も減っていく。2009年、26歳だった。金が底をつき、持っていたビデオカメラを売った時、マジでヤバいと思った。就職活動をしないとどうにもならない。

職安通い

職安に通いはじめ、映像の制作会社にディレクター志望で面接を受けた。履歴書には自主映画が公開されたことも書いた。だが、それは何の実績にもならなかった。ことごとく面接に落ちまくり、家賃が払えなくなると親戚の叔父の元へ金を借りに行った。学生時代にパチスロで出来た借金が残っていたので、それは利息を払うだけで精一杯だった。

映像の制作会社を職安のパソコンで検索する時、「専門職」というカテゴリーを選択する。そこで一番目につくのが介護の仕事だった。ならばと介護の面接も受けてみることにした。だが今度は「資格を持っていないのにこんなにキツい仕事が出来るのか?」と面接で落とされまくった。八方塞がりで仕事が見つからない状況が続く。すると、職安で「無償で職業訓練を受けつつ、かつ生活保護ももらえる」という制度がスタートしたことを知り、応募してみた。

面接会場はたくさんの人でにぎわっていた。同じように生活に困窮し、仕事が見つからない人が多いのだろう。資格がほしい動機をみっちり書き、面接でもこれまで落ちまくっていることを熱弁した。高い倍率だったと思うが、数日後、合格通知が届き、職業訓練がはじまった。毎月15万円ずつお金を支給され、しかもホームヘルパー2級の資格が取れる。研修が終わる時に実習先の施設から「ここで働かないか?」と誘ってもらい、2010年5月、有料老人ホームに正社員として採用されることが決まった。27歳の時だった。

(文:岩淵弘樹)

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