東京国際映画祭に行ったことがある人なら、一度は見たことがあるであろうこのお顔。
映画の上映後の、監督とのQ&Aなどの司会を、プロ顔負けの技術で務めるのがこの人だ。
映画パーソナリティと呼ばれる人たちほど軽くならず、しかし、映画評論家と呼ばれる人たちほどマニアックにもならず、深くかつ楽しい場に仕上げていく。
その正体は東京国際映画祭・プログラミング・ディレクターの矢田部吉彦さん。プログラミング・ディレクターとは、映画祭に出品する作品を選定する人のこと。そのために、年間700~800本は見ているという、“映画を選ぶプロフェッショナル”である。
もちろん、ご本人は映画好き。ありふれた言い方をしてしまえば、“好き”を仕事にし、ご自身の能力を最大限に発揮されているように見える。だが実は、いきなり映画を仕事にしたのではなく、大学卒業後には銀行に就職し、30歳を過ぎてから映画業界に入った人。一体、どういう経緯で大幅なキャリアチェンジをし、そして現在はどんな生活をしているのか? これまでと今の仕事の話を聞いた。
映画業界だけではなく、好きなことを仕事にしたい人、したかった人、するべきか悩んでいる人、必見のインタビュー。
「好きだからしたい」という夢みたいなこと
――映画という“好き”を仕事にされた矢田部さんですが、映画を仕事にしようという意思はずっとあったのでしょうか?
「僕はずーっと映画ファンではあったのですが、あまり映画を仕事にするということは考えていなかったんです。学生時代はバブルの末期で、普通に就職するのが当たり前の時代でしたしね。それに、『映画が好きだから映画の仕事をしたい』って……ねえ?(笑) そんな夢みたいなこと言って、と自分でも思ってしまったんですよね。それですごく悩みました」
入社3日目で後悔、10年悩む
――その悩みが最初の就職先をやめるまで、約10年続く……ということですよね?
「ええ、前の会社は、入社して3日目で入ったことを後悔しました(笑)。でも、すぐにやめるのはよくないから、しばらく続けよう、と。でも30歳になるまでには自分の人生を考えなければ、と思っていて。結果的に10年くらい経ってしまいました」
――10年悩み続けられるのもすごいですよね(笑)。
「今だからこそ、遠回りしてよかったと思えますが、当時は、本当にハッピーではなくて、非常に行きづまった毎日でした。ただ、その悩みが長く続いたからこそ、こんなに好きならやってもいいんじゃないか、と思えるようになりました」
漠然とした夢がハッキリと見え始めたとき
――漠然とした「映画の仕事がしたい」という気持ちから、今のような「映画の紹介をする仕事」とより具体的な選択になったのは何かきっかけがあったのでしょうか?
「悩んでいた10年の間に、イギリスに留学する機会があったんですが、そのときに、大学のキャンパス内に市民も通える映画館があったんです。そこでは週2回プログラムが変わるんですが、メジャー映画もインディーズ映画も、国籍問わず上映されていたんですよね。そこで流れている映画を片っ端から見ていったんです。そのときに『こういう外国映画を日本に紹介する仕事ってあるよな……』と思えたんです。
そのときに漠然とした『映画の仕事がしたい』の段階を抜けて、映画の配給・買い付けといった仕事が具体的に見えてきたんですよね。これは、趣味ではなくて仕事にできるかもしれないぞ、と思えたんです」
“趣味を仕事に”してみてから
――では、実際に趣味を仕事にされてみてどうですか?
「映画を嫌いになるかもしれない、と懸念していたのですが、そうはならなかったのが本当によかったです。例えば、昼は仕事として映画を1日中見て、まあ少し疲れますよね。そうすると、夜はシネコンに行って、今度はビールとポップコーンをお供に、ハリウッド映画を見る。映画を見ているということに変わりはないんですが、夜は趣味なんです。ポップコーンとビールがないときは仕事です(笑)。そうやって棲み分けをしています」
――野暮な質問ではあるのですが、そうすると年間何本くらい見ていることになるのですか?
「700~800本くらいですかね。予定が空いていれば土日も普通に映画を見に行ってしまうので、仕事の忙しさと本数は実は関係ないんですよね。ひとえに好きだから、ということですかね」
――ちなみに矢田部さん流鑑賞術というのはありますか?
「上映後に、メモをとるようにしています。そうしないと、忘れてしまうんですよね。なので、映画メモがなくなると、僕の過ごした時間がなくなってしまうので、もう命の次に大事です(笑)」
――その珠玉の映画メモ、内容はどんなものなんでしょうか?
「感想は少なめで2割くらいですかね。残り8割はあらすじです。あらすじを読み返すと、感想は後からでも思い出せるんですよね。メモは映画祭で上映する作品を決めるときにも見直しますし、もちろん上映後のQ&Aの司会をするときにも見直します。司会のときは、メモだけではなく、作品自体をもう一度見ることもしますけどね」
名司会・矢田部さんの心得
――その矢田部さんの司会、本当に素晴らしく、毎回知的で楽しい時間です。
「ありがとうございます。実は、僕が、映画祭の仕事をしていて、どこに生きがいを感じるかというと、おそらく司会の仕事なんですよね。
もちろん、映画を選ぶという仕事が最も重要ではあるんですが、選ぶだけで終わりではありません。“映画を選んで、監督を呼んで、お客さんに届ける”という行程の中で、司会という立場で、監督とお客さんの間に立てるのが、たぶん一番の喜びなんです。上映後のQ&Aの時間の司会をするというのは、監督からお客さんに映画の橋渡しをする重要な場なんですよね」
自分は“ただの客”である
――正直、最近では矢田部さんが司会をしそうな作品を狙って見にいっているくらい、あの時間は充実しています。映画パーソナリティや評論家の人たちとも違って、見ている人のツボをついてくれるような質問を繰り出せる理由はあるのでしょうか?
「究極的には、自分はただの客だと思っているんです。コンペティションの作品選定も、自分が客だったら色々なものを見られた方がいい、と思ってバラエティに富んだ選定をしています。Q&Aのときも、自分が客だったら聞きたいよな、と思うことを普通に聞くようにしています」
辛かった分、関われるだけで幸せ
――とはいえ、映画のお仕事につかれてからも10年以上。どうしたら、矢田部さんのように業界ズレせずに、フェアな観客目線を保ち続けられるのでしょうか?
「いかに日頃から色々なものを見ておくか、ということがフェアな目線での紹介をするためには重要です。幅広く見て、自分が好きじゃないものについて語れるということはとても大事なんです。幅広く見ておけば『自分は好きではないけれど、この作品をいいと思う人はいるだろう』という発想で紹介することができます。
あとは、僕に関して言えば、もしかしたら、ほかの業種経験があるということが大きいのかもしれません。15年くらい、映画業界の片隅にいますけど、自分はただの、いち映画ファンだと思うことがほとんどです。他の仕事をしていて辛かった時間も長い分、今は映画にちょっとでも関われるだけで幸せだ、という気持ちで過ごせていますね
すぐに「好きを仕事に」できなかったからこそ、できること
誰もがいきなり、自分の好きな仕事につけるわけではない。しかし、いきなり好きを仕事にできてしまった人ではなく、できなかった期間を経た人にだからこそ織り成せる、尊い仕事がある。矢田部さんの仕事が心を揺さぶってくれる理由が、少しわかった気がした。次回は、矢田部さんに映画業界や映画祭の現状、将来の展望などについて語ってもらう。
(取材・文:霜田明寛)