18歳の春、僕は東京に上京しました。
あれから21年が経ち、東京に暮らした時間の方がほんの少し長くなったこの初夏、富山に戻ってまいりました。
住民票も移し、40歳を目前に、いまふたたびの富山県民でございます。
とはいえ、事務所も劇団も演劇も続けていますし、仕事が入れば東京に行く、ゆるやかな2拠点生活のつもりです。
Uターンの理由は、祖父母の遺した家が数年前から空き家になっており、いずれここに住むのもいいかもと思っていたのですが、
富山の環境の方がもうじき3歳になる子供をのびのび育てられそうということ。もう少しして保育園のお友達と仲良くなったあとだとお別れが寂しいかもということ。さらには40歳できりもいいし、いいタイミングかもしれないとこのたびの移住に踏み切りました。
と、戻ってはみたものの、なぜだかしばらく気分が沈んでいました。
錦織の着物が着れるくらい出世して地元に戻ることを「故郷に錦を飾る」と言うそうですが、普通にユニクロを着て帰ってくる始末。いやもちろんユニクロは素敵なんですけど、問題はこの歳でいまだにユニクロくらいしか買えないということ。ユニクロだけはある。飾るほどある。
これはもう、ただの都落ちではないのか。俺もう、終わっちゃったのかな。
そして、ずっとどこか遠くに行きたいと思っていた中学高校時代の僕は、ここを出て行きたいと切に願っていたあのころの僕は、なにを思うのだろうと。
中学のころは、大人になったらお笑い芸人になると決めていました。
当時、僕は同級生の男子とコンビを組んでいて、いつか二人でテレビに出まくって世の中を爆笑の渦に包むのだと信じていました。
そのころにも、金曜のゴールデンタイムには高級料理を食べて値段を当てる番組が放送されていて、
いつか自分たちも人気になってこういう店で食事をするようになるんだと、漠然とした夢ばかり見ていました。
それゆえ、中学を出たら相方と大阪へ!と決めていたのですが、中学の同級生で高校に進学しない人間は周りに一人も見当たらず、まぁ仕方ねぇかと言いながら地元の高校へ進みました。ただ中卒で実家を出るのをビビっただけでしたが、妥協してやるか、みたいな顔だけは一人前でした。
コンビを続けるには同じ高校だと都合がいい。そこで僕は、「一緒の高校行こうよ」と相方を誘いましたが、彼は「工業高校に行く」ときっぱり言いました。
彼は小さいころにお父さんを亡くしており、そのお父さんが若かりし頃に通ったのが工業高校で、
さらにはそこのバレーボール部で大活躍した選手であり、当時の監督もまだ在籍して入部を誘ってくれているらしく、「亡き父の影を追いたい」という想いが選択の理由でした。なんて素敵な理由だろうか。
しかしそれを聞いた僕は、「そんな男子校みたいな学校ぜったい嫌だ!!」と突っぱねました。なんて最低な理由だろう。女の子がいても別に喋れないくせに、女の子がいない環境は全力拒否。
そうして別の高校に進むことになった僕は、行けそうな高校を絞ったあと、最終的に制服を学ランにするかブレザーにするかのどうでもいい2択で悩み、どっちかと言うとブレザーかなぁ程度で選んだ高校に進みました。
結果として、この連載の最初の方から書いている「女子校みたいな地獄」に3年間通うことになり、
高校卒業間際に別の高校の友達の学ランを着てみたところ、「お前絶対学ランの方がよかったよ…ブレザーより学ランが似合うよ……」とその場にいた全員に言われ、高校3年間ずっと間違ってたんだなぁと思いました。
バチが当たった。そう言わずに、なんと言おうか。
そしてそれぞれの高校で、僕はお笑いのためにはじめた演劇を、相方はバレーボールを頑張り、コンビは自然消滅していきました。
高校1年目には、もう相方には芸人を目指す気持ちはなかったように思います。
高校を出て、僕はもっと演劇をやりたいと東京の大学へ。相方は実務の専門学校に進み、そのまま介護職の道を選びました。
当時の僕は、どこか裏切られたような気持ちでいましたし、具体的なことを言われたわけでもないのですが、
大人になった今にして思えば、幼い頃から母子家庭だった彼と、東京の大学に仕送り付きで送り出してもらえた僕では、きっと見えていた景色は違ったのだと思います。
なんにも知らない愚かな僕は、高校がつらくてなるべく遠くに行きたい気持ちと、富山では思い切り演劇ができないのではないかという勝手な思い込みから、逃げるようにして東京へ出ていきました。それを選べる時点でだいぶ恵まれていたということに気づけたのは、ずいぶんあとになってからでした。
上京の前日。元相方が、取り立ての免許で運転しながら、富山の思い出の場所を連れ回してくれました。
なにを話したかは、覚えていません。
ただ、ずっと応援してくれていたということだけ、なんとなく覚えています。
2004年、4月1日。
父の運転する車に荷物を詰め込んで、推薦で合格した演劇の大学に入学するため、東京へと向かいました。
その日はやたらと晴れていて、高速道路をひた走る車の窓の外に、突如として青い海が見えました。
その次の瞬間、カーラジオが何県のかもわからない電波を捕まえ、当時流行っていた「全てが僕の力になる」という曲が流れ込みました。
アーティスト名は「くず」。芸人として人気を博していた二人が、コント番組内で組んだ音楽ユニット。
「ああ、自由なんだ」と、なぜだかそのとき、ふいに思えたのでした。
上京前は、東京のことをなぜかとても危険な街だと思っていて、「突然襲われるかも…」と脅えていたのですが、普通に人は優しいし、別に危ない場所に行かなきゃ危ないことも起きず、大学もはじめての一人暮らしも本当に自由で、瞬く間に日々は過ぎていきました。
大学1年の夏、富山に帰省した際、高校の同級生の男子にばったり会いました。
同じクラスにもなったこともある、野球部だったその彼のことは別に嫌いではなかったのですが、
僕と違ってクラスの女子と付き合うくらい馴染めていたし、演劇部でバカにされていた自分を知っている人に会ってしまったことがすごく嫌で、
「覚えてる?」と聞いてくれる彼に、
「あー、えっとー、ごめん…」と、まるで覚えてないふりをしてその場をやり過ごしました。
本当は、いまだに忘れてないくせに。
大学2年の夏、高校時代にその彼と付き合っていた、彼女の方とも会いました。
彼女は、ドラッグストアのレジに立っていて、僕はそのときタイミング悪く、人生で初めて髪を染めてみようとカラーリング剤を買おうとしていて、
別にお互いに気付いてないふりをしたのですが、前述の通り、高校時代の自分を知っている人に見られたということが無性に恥ずかしくて、ちょっと赤っぽい茶髪にしようとしてたのも余計に恥ずかしくて、お前ごときが調子に乗るなと思われたかもしれないという自意識をこじらせ、やっぱりもう地元にいたくないという気持ちが強くなっていきました。
20年も経ってみて思えば、一体なにに囚われていたのだろうと馬鹿馬鹿しくなります。
みんなそんなに他人に興味なんかない。大人になって、より強く思います。
なんてわかったふうなことを言いながら、富山に帰ってきて、気持ちが沈んだのも事実で。
きっと、成功もせず手ぶらで帰ってきてしまったことを、都落ちと思われるかもしれないということを、恥ずかしく感じているのでしょう。
でも、ちょっとだけ変われたかもということとして、
今年の初頭、上京した次の年に作った劇団の20周年記念公演をしたのですが、ありがたいことに評判もよく、動員も過去最高を記録することができました。
そこからしばらくして、夢を見ました。
高校2年の時に大失敗した文化祭の舞台から1年後。高3になった僕が、体育館のステージで新作を上演し、歓声と熱狂に包まれる、という夢でした。
もちろん、現実にはそんなこと起こらなかったし、実際に今やってもそうはならないだろうなってくらい都合のいい、甘すぎる夢物語だったのですが、
20年続けてきて、今ならそのくらいやってやれるんじゃないかって自信が、自分の中にちょっとでも芽生えたような気がして、なんだか嬉しかったです。
結局、錦を飾るどころか、ゴチバトルに出てくるような店にも一度たりとも行けなかった。
でも、ようやく持てた小さな自信は、大事に持っていたいと思います。
そんなこんなで先日、移住したことを元相方に報告してみました。なんだかんだ、帰省のたびに連絡は取っています。
すると、「演劇は?」と聞かれたので、「やめてない」と伝えると、「そうか、素晴らしいな」と返ってきました。こいつもなにも変わっていない。
北陸新幹線も通って、昔よりも東京なんてすぐ行ける。
今からまた、あのとき自然消滅したコンビをやってみることだってできる。
まだはじまっちゃいねぇんだから。
きっとまたすぐ、ささいなことで心は囚われ、気分は沈むことでしょう。
でも今、「ああ、自由なんだ」って、あのころ思えなかった富山でいま、思えています。