ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
チェリーについて

「弱者ドキュメンタリーという第二の差別」気鋭の監督に聞くテレビの今

劇場版『ヤクザと憲法』に登場する、元引きこもりの、ヤクザの青年。監督の土方宏史(ひじかた・こうじ ひじは土に「、」)さんは「彼から目が離せなくなった」「彼は現代のドロップアウト」と語り、作品は彼に優しく寄り添っていた。しかし、それは今の世の中に溢れる、いわゆる“弱者に寄り添うドキュメンタリー”とも違った。

だが、ここで、さらにひとつの疑問が湧く。なぜ、東海テレビという、愛知県のテレビ局というある種のメインストリームを歩んでいるように見える土方さんに、この作品が撮れたのか。これは、土方さんに限らず、東海テレビ全体に言えることなのかもしれない。
インタビューの後編は、その理由を聞くところから始めた。

フジテレビではない僕たちは

(C)東海テレビ放送

(C)東海テレビ放送

「そう言って頂けるのは、僕自身も全くメインストリームではない、ということがラッキーに働いているのかもしれません」

――土方さん自身に、自分はメインストリームではないという自覚があるのですか?

「そうですね。僕自身もですが、まずは局自体ですよね。僕たちはキー局にはなれない、ローカル局なんです。支局ではないので、どんなに頑張ってもフジテレビには入れない。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、キー局というメインストリームではないという自覚があって、そこに対するコンプレックスもあるんです。

さらに、ドキュメンタリーをやっているということ自体が、テレビ局の中では全くメインストリームではないんです。僕自身も、制作部にいてバラエティ番組や情報番組を作っていて、そこからはじき出されて来ているんです。プロデューサーの阿武野に至っては、最初はアナウンサーでしたからね。僕らは、それぞれの場所から、弾かれて辿り着いた先がドキュメンタリーだったんです。もちろん、程度の差はあるかもしれませんが、僕自身にも、基本的に排除されて、居心地が悪く生きてきて、優等生ではないという自覚があります。ドキュメンタリーをやる人間には、そういう人間が多いんじゃないですかね」

記号として弱者を扱うドキュメンタリーはやりたくない

――元からドキュメンタリーがやりたかったワケではなかったんですね。

「いわゆるドキュメンタリーには全く興味がなくて、むしろやりたくなかったですね。ああいうキレイごとを言うのは、なんか嫌だなあという思いがあったんです」

――いわゆるドキュメンタリーとは、どういったものなのでしょうか?

「『ドキュメンタリーだからこのテーマじゃなきゃいけない』とか『このテーマをやっとけばいい』っていう作り手がおそらくいて、そういうドキュメンタリーが僕は大嫌いなんです。例えば『障害者だったらいいじゃん』『高齢者だったらいいじゃん』『子供出しときゃいいじゃん』といった感じで、深く考えずに、記号として障害者や高齢者を扱っている人たち。

彼らはドキュメンタリーという力を借りて『俺たちいいことやってるでしょ』と思い込む、ある種の思考停止になっているんですよね。もちろん、その先に考えや伝えたいことがあって、やっている人もいるとは思います。でも、地方のドキュメンタリーのコンクールなんかに行くと、そういった思考停止のものばっかりなんです。あれはもう第二の差別なんじゃないですかね」

自覚のないドキュメンタリーは第二の差別

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――第二の差別、ですか?

「取材対象の方に本当にシンパシーを感じているのだろうか、と疑問に思うことがあるんです。だって、テレビ局員なんて、いくら給料もらっているんだって話じゃないですか。自分たちと取材対象の方の間には越えられない溝があって、それを自覚した上で、作っているならいいんです。でも、そうではなくて『自分たちはあなたたちの味方です』みたいなことを言いながら『僕たちとあなたたちは一緒ですよ』というフリをして近づく。そして『今いいセリフ言ったな。いただき!』みたいな感じで、自分たちの都合のいいところだけ切り取る……といったものが増えてきている気がするんです」

――確かにそれは、いち視聴者として見ていても感じるところがあります。

「多分もう、そんなのが世の中に見透かされつつあるんでしょうね。テレビ局の中で守られて、高い給料をもらって、リスク背負わずに、型にハマったものを出していく。『これをやっときゃいいでしょ』『このタレント出しときゃいいでしょ』と、ある意味視聴者を見ずに、社内を見てしまっている。そういうところが、もう一般の社会とズレてきちゃっていて、見ている側からすれば『お前たちって全然世の中と違うよ』って感じですよね。そこが、今テレビが叩かれている一因でもあると思います」

テレビ局員が表現者からリスク管理の側に

――おそらく、かつてに比べて、よりその感覚がズレてきているのだと思うのですが、そこに原因ってあるんですかね?

「テレビ局が、よい勤め先、安定した就職先になってしまっていることですかね。みんな、表現がどうこうではなく、肩書きとしてのテレビ局員を求めてしまうじゃないですか。これを就活生に言うと、みんな口ごもっちゃいますけど、本当にテレビ番組が作りたかったら制作会社に行けばいいわけですからね。
昔はもっと、『表現したい!』『こんなもの撮ってみんなに見せたい!』といった、純粋な作り手としての意識があったんでしょうけど、今はもう、どちらかというとリスクを管理する側になってしまっていますよね」

世の中がダメと言っていることに再考を促すのがテレビの仕事

(C)東海テレビ放送

(C)東海テレビ放送

――リスクというと、今回のヤクザを被写体にするドキュメンタリーという企画もリスクを含んでいるように見えます。

「みんな『ヤクザなんて扱ったらダメに決まってるじゃん』って言うんですよ。でも実は、ダメな理由をみんな考えたことがないんです。『世の中がダメだからダメでしょう』っていう感じなんですよね。でも、その世の中がダメって言っていることをもう1回考えてみましょうか、っていうのが僕らの仕事ですよね。そのダメとされている場所や人を見に行くのが僕らの仕事です。そこにビビったり、興味がなくなったら、それはもうジャーナリストではないですよね」

文字面だけ読むと、東海テレビという局に所属する土方さんが、自分をメインストリームではない、と言い切ることに違和感をもつ人もいるかもしれない。でも、1対1で対峙しながら、僕は言葉通りに土方さんの言葉を信じることが出来た。
そして、土方さんの作る作品は、メインストリームではないところを走ってきたからこそ掬いとれたもの、に溢れている。

自分が異質なものとして排除されてきた経験のある人は、良くも悪くも、自分と他者との線引きに自覚的になっていく。そして今回の、“いわゆるドキュメンタリー”を比較対象にした話でピンときた。他者であることの自覚がないほうがより差別的なのだ、と。そして、こちらのほうが、無自覚であるがゆえに、実は根が深い。
土方さんが他者としての自覚を持ち、他者として入りこんでいっているからこそ、見えてくるものが、この『ヤクザと憲法』では炙りだされている。

(取材・文:霜田明寛 写真:浅野まき)

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■関連リンク
映画『やくざと憲法』公式サイト
2016年1月2日(土)よりポレポレ東中野にてロードショー、ほか全国順次

インタビュー前編はこちら!

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