浅田真央が「平昌五輪を目指す」と発言すれば、日本ではすぐにそれがトップニュースになる。
そう、彼女はまぎれもなく、「日本で最も愛されるアスリート」の1人なのだ。
普段はフィギュアスケートをそこまで熱心に見なくても、「真央ちゃんは応援してしまう」という人は少なくない。
そしてそんな人に会うたび、わたしはいつも「なぜ真央ちゃんは、こんなにも応援したくなるのだろう?」と疑問を投げかけるのだけど、たいていはハッキリと言葉にできない。
かく言うわたしも、もうずっと長いこと浅田真央選手が好きすぎて、むしろ困惑している。
なぜこんなにも好きなのか、やっぱり上手く言葉にすることができないのだ。
とても不思議な存在だなあと、いつも感じている。
しかし今回は、あえてそこを言語化することを試みてみようと思う。
浅田真央の人気は、今の時代だからからなのか?
4月11日(月)、NHK『クローズアップ現代+』で浅田真央の特集が放送された際、番組に出演していたミッツ・マングローブは彼女の人気の理由を「今の時代だから求められる、よりどころのような存在」と表していた。
「なるほど、そういう部分もあるのかもな」と思いつつも、どちらかというと違和感の方が強かったかもしれない。
彼女の魅力は、もう少し普遍的なものではないかと思ったのだ。
彼女の人気は、まさに「老若男女問わず」。
実際に会場に行くとそれを強く実感するのだけど、幅広い層から見守られている。
まさに観客が、総保護者状態なのだ。まるで孫を見守るよう。
あ、そうか。真央ちゃんて、孫なのかもしれない。
おじいちゃん・おばあちゃんにとって、孫はとにかくかわいく、無条件に応援してしまう存在。勝敗や順位は二の次で、ケガなく、本人が納得してくれればそれでいい。そんな感じではないだろうか。
そして実際、彼女を応援する人たちは、確かにそんなスタンスだ。
浅田真央は、なぜ「国民の孫」なのか考えてみる
で、問題は、「なぜ浅田真央は、みんなにとって孫のような存在たりえるのか」。
ひとつずつ、言語にして考えてみたいと思う。
【1】「うちの孫は本当にやさしい子なの」
まず、誰に対しても平等なやさしさ。
いつ、どこで、誰に対しても、彼女は雰囲気も言動も、実にやさしい。
先ほど紹介したクローズアップ現代でも、「寒くなかったですか?」と、取材班を気遣う場面が印象的だった。
そういえば、おじいちゃん・おばあちゃんは孫に甘いけど、孫も、おじいちゃん・おばあちゃんには、親よりもやさしく接してしまうものだ。
マスコミ陣からどんなに煽り気味な質問を投げかけられたとしても、誰も傷つけない言葉をきちんと選ぶ。そういう彼女の理性的なやさしさは、わたしたちから親的な“厳しい目”を削ぎ落としてしまうのかもしれない。
本当に、うちの孫はやさしくて、いい子なのよ(おばあちゃん目線)。
【2】「うちの孫は本当に頑張り屋さんなの」
次に、試合のたびに、どこか成長を見せてくれるところ。
これってまさに、毎日は会えないけれど、時々会っては孫の成長を確認して喜ぶおじいちゃん・おばあちゃんの心情そのものだと思う。
世間はどうしても、彼女の代名詞である“トリプルアクセル”の出来に印象を左右されがちだけれど、彼女は絶対に毎年、毎試合何かしらのポイントで“成長”を見せてくれる。
例えば先日行われた世界選手権のフリープログラム。一番“成長”を見せてくれたと思うのは、“コレオグラフィックシークエンス”の部分だった。詳細な得点が記されているプロトコルを見ると、この部分では他の選手に比べて圧倒的な評価を受けている。
“コレオグラフィックシークエンス”が何かというと、公式のルールでは「あらゆる動きを取り入れた自由なパート」となっている。
思わず「なんだそれ!」とツッコミを入れたくなる曖昧な表現だが、要するに、「演技の見せ場となる振付」のことなのだ。
全体の中での得点比重は高くないが、スケーターの個性が如実に出るし、そこを高評価されたのは、浅田真央が「ジャンプだけではない個性の持ち主」と評価されたということに他ならない。
しかもこの大会では少し振付を変えていて、“コレオグラフィックシークエンス”に“ロングスパイラル”が組み込まれていた。
この“ロングスパイラル”は、以前のルールでは女子の必須項目だったのだが、最近はあまりお目にかかれなくなった。“旧時代的”な要素をあえて取り入れ、“新時代的”な採点で高い加点を得たというのは、まさに彼女が酸いも甘いも噛み分けて成長した結果のような気がして、非常に感慨深かった。
……おっといけない。こんなことを書いていると、思わずまたウルッとしてしまう。
だってうちの孫ってば、言い訳ひとつせず、本当に頑張り屋さんなんだもの!
【3】「うちの孫はどこに出しても恥ずかしくない、自慢の孫なの」
最後に、これはもう、孫とかは関係なく、誰が見ても美しいこと。
美しいといっても、外見だけの話ではない(もちろんお顔もかわいいけれど)。
昔から彼女の天真爛漫で純粋な魅力は知られていたけれど、その魅力は、25歳になった今の方がグッと際立つ。
レディーの体の中に、少女にしか持てないような清純さを宿しているからだ。
これがいかに不可能に近いことかというのは、大人になった今なら、痛いほどにわかる。
彼女の「大人でありながら少女でもある」という稀有な美しさを噛みしめたのは、今年1月、盛岡で行われたNHK杯スペシャルエキシビションで披露された『ジュピター』の演技だった。
イギリスの少年合唱団『リベラ』の生歌に乗せて、仙台の子どもスケーターたちと一緒に滑る、この日限りの演出。
あまり神格化する気はないのだが、この演技を見て、本気で「女神」だと思った。
体は紛れもなくレディーであるのに、子どもたちの世界に、何の違和感もなく溶け込んでいるのだ。大人だけど、少女のようでもあり、どこか性別すら超越している気がした。
これこそが、浅田真央というアスリートが、老若男女から愛される由縁ではないだろうか。
何にも偏らない、清廉潔白な彼女のオーラ。
これはおそらくいつの時代の、誰にとっても、普遍的な美しさのはずだ。
そういえば、先日の世界選手権が行われた際、ロシアのコメンテーターの方が「真央を愛さずにはいられない。彼女は国籍を持たない。フィギュアスケートの世界で生きているから」といった発言をされたそう。
わたしたちの愛する孫は、世界でも孫のように愛されているのだ。
本当にうちの子ってば、どこに出しても恥ずかしくない、自慢の孫!
「ケガなく、本人が納得できればいい」はファンの真意
彼女が現役復帰をしてからの一年は、また選手として応援できる喜びを感じられた一年だった。
だから感謝の意もこめて、シーズンが終わった時には、彼女の魅力をひたすら書きつづるだけの記事を書きたいなと思っていた。
アスリートには選手としての寿命がある。
それは応援する側も、永遠ではないということ。
できるだけ長い間、孫の成長を見守れることこそが、わたしたち“おじいちゃん・おばあちゃん”こと、ファンの幸せなのだ。
(文:佐藤由紀奈)