“美女を捨てる映画”を撮った男の正体
『美女捨山』――。
タイトルだけで「えっ何!?」とひきつけられるこの映画。その名の通り“20歳以上の美女を山に遺棄することが法律で定められている国”を舞台にしたダークファンタジーだ。
こんな設定の映画を思いつく人は、人生の中で美女になんらかの恨みを持った、我々の仲間に違いない!そう信じこんだ我々、“永遠のオトナ童貞のための文化系マガジン”チェリー。
しかし、『ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2016』でお披露目されたこの作品の舞台挨拶に登壇したのは、女性に恨みなど抱きそうもない、いや、どちらかといえば美女に恨まれていそうな、大人のオーラを醸しだした男・竹重洋平さんだった……。
1999年に劇団『弾丸MAMAER』を創立し、2012年にはNEWSの小山慶一郎さん主演の舞台『ハロー、グッドバイ』の作・演出を手掛けるなど、演劇界で活躍してきた竹重さん。今回が初、映画監督作品となる。これはチェリーとしては話を聞かないわけにはいかない……ということで、舞台挨拶後に直接交渉。インタビューをおこなった!
アイディアは筋トレ中に降りてくる
――まずは、美女を捨てるという素晴らしい発想を、どう思いつかれたのかが気になります。
「僕、長野に縁があって、取材がてら長野に行ってみたんですよ。それで、長野の山々が連なった様子を見ていたら、降りてきた……といいますか(笑)」
――降りてきたんですか!
「ええ、言い方は難しいんですが……。実は『姥捨て山』という民話も、長野の民話なんですね。それを知っていたのもあると思うんですけど。山々を見ていたら、映画の冒頭に出てくる、“白装束のオッサンが、美女を運んでいる”という画がパッと浮かんだんですよね」
――ちなみに、普段、そうやって発想が降りてくるときは、今回のように旅の途中だったりすることが多いのですか?
「いや、これは僕の経験則でしかないんですけど、普段は筋トレしてるときに降りてくることが多いんですよ。走ったり、格闘技をしたりしているときは、たぶん脳が活性化しているんだと思うんですよね。そういうときに、ビンビン降りてきて『あ、いま来たぞ!』となることが多いですね」
――逆に降りてこないシチュエーションというのはありますか?
「パソコンの前にいるときですね。『ネタを考えよう』とかまえて座って、思いついたことがないですね。これは無駄な時間だと思うので、オススメできません」
――竹重流・発想術が垣間見えて嬉しいです。ただ、この“美女を捨てる”という発想は、思いついたにしても、昇華させるのがなかなか難しそうですよね。
「ええ、まずは発想を思いついても、しっかりとしたストーリーの骨組みがないと映画にはならないですしね。でも今回、“なぜ美女を捨てるのか”という理由は不思議と、どんどん浮かんできたんです。あとは、発想をどうストーリーにして、どんなメッセージ性をこめていくかというのを考えていきました」
人は人を見て、アリ・ナシを決めている
――この作品は、美女とブスで、はっきり線引きをしていますし、下手をすると、差別的に捉えられてしまう危険性もありますよね。
「ええ、でもそこは強気にいきました。だって、人は人を見たときに、アリ・ナシで分けてますよね?第一印象といっても、それは大きく容姿のことを指していて、そこでアリ・ナシを決めているじゃないですか。そういう部分を、包み隠さずに表現するのが映画だと思っているので、そこは強気にでたんです」
――確かにそうですね。ただ、できあがった作品は、線引きをするだけではない作品に仕上がっていたと思います。
「ええ、ただ単に美女とブスの話ではないということがわかってもらえるよう、そこが本質でないことが伝わるようにはしっかり考えたつもりです。美女を何かの象徴にしたかったんですよね」
保守化する日本で表現がつまらなくなることへの危惧
――さすがに何の象徴かを聞くのは野暮なので、象徴化するまでに考えてきたことを教えてもらえますでしょうか?
「今回、美女を“法令で”捨てさせる、という話ですよね。僕の中に法律やルールや規制への反感のようなものがあったんですよね。そういう規制が増えていって、日本全体が保守的になっている気がしたんです。僕自身、ドラマのプロットを書くこともあるのですが、テレビだと特に『これをやっちゃいけない』といったものが多いんです。そうすると、どんどん何かがつまらなくなっている、という気がしていたんですよね。それは僕自身にも言えるんですけどね」
強くなっていった“物書きのアレルギー”
――僕自身にも言える、とはどういうことでしょうか?
「歳をとってきて、自分自身にも保守的になっている部分を感じたんです。それに、長く劇団をやってきて、“自分がやりたいこと”と“求められるもの”の誤差を感じるようになってきたんですよね。これをしたら嫌われるかも、これをしたら誤解されるかも、なんて考え始めると、やりたいことが純粋にできなくなっていったんです。まあ、物書きのアレルギーっていうんですかね。それで10年以上やっていた劇団を休団して、今回のびのびと映画を撮ってみようと思ったんです」
――そういった個人的な思いがあっての、この映画だったんですね。
「ええ、ただ一方で、僕個人のことや、僕の周りで起きていることを映画にするのは、僕の業ではないと思っているんです。自分にしかわからないようなことだと、共感を抱いてもらえません。だから、大風呂敷を広げられるのなら広げたい、という意識があるんですよね」
人間の善悪を炙り出したい
――それは竹重さんの過去の演劇作品にも共通することなのでしょうか?
「僕が書いてきたものは、史実をモチーフに自分流にアレンジした作品が多いんです。例えば、昭和の殺人事件や、逃亡犯の話だったり。なぜその人は人を殺したのか、犯人には過去に何があったのか、ということを追求したくなるんですよね。ニュースを見ていても、妙な事件が起きると、すごく食いついて、人間の善と悪を炙り出せないだろうか、ということは常に考えていました。人の心の闇みたいなものに関心があるんでしょうね」
――そうすると、竹重さんが好きな作品もそういうものが多いんでしょうか?
「映画を見たり、本を読んだりするときも、重いものが好きなんですよ。映画だと特に好きなのは、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(※)。ああいう題材であのリアリティーを出せるのはなかなかないんじゃないですかね。ちなみに今村昌平監督は、『楢山節考』で姥捨て山を撮ってるんですよね」
(編集部注:1960年代に実際に起きた殺害事件を題材にした小説を原作に、1979年に今村昌平監督が映画化。主演は緒形拳)
女子のことは、わからないからこそ、描きたくなる
――今村昌平監督と竹重さんの間に何か通ずるものがあるのかもしれないですね。
こうやって、お話を伺っていると、お話と映画は結びついてきました。ただ、どうにもイケメン・竹重さんの発する陽のオーラと結びつきません。映画を見終わった後に、不細工な監督が出てくることを想像していたので、お顔を拝見して、裏切られた気分でした!
「それは新鮮な感想ですね(笑)。この作品を見た人に『美女に何かされたんですか?』って聞かれたこともあるんですよ。全くないんですけどね……」
――となると、あの映画にたどり着いた理由がますますわからなくなりますね……。
「ひとつ言えるとすれば、女のコのことを考えるのは好きなんです。これまで、女性主役の作品も多くて、そこはひとつの業なんじゃないかと自分で思っています。男のことって、自分が男だから、ある程度わかるじゃないですか。でも、女の人は、違う生き物だからわからないんです。そうすると、追求心が止まらないというか、わからないからこそ描きたくなるんですよね」
ドラマは美しくない人から生まれる
――先ほどおっしゃっていた、犯罪者の心理を追求したくなる部分と似ているのかもしれませんね。では、物語に男を登場させるときはどういう風に人物を造形していくのでしょうか?
「男ものを書くときは、色んなことに恵まれていない男を主役にして書くことが多いですね。だから、特に僕個人のオリジナル作品では、2枚目の役者さんは脇役になります」
――竹重さんはこんなに恵まれた男なのに!(笑)
「いえいえ、僕は自分のことを男前だとは思っていないんですけど(笑)、薄汚れている男のほうが、背負っている感じがして好きなんですよね。だから男のキャラクターには、僕の中の醜い僕を投影させることがあります。僕の中の、ずるくて、変態で、気持ち悪い部分を出したい。もちろん、容姿も美しくなくていい。むしろ、美しかったらダメなんです。嘘くさくなってしまうんですよ。幸せで美しい人は、死ぬだけですからね。ドラマがなかなか生まれないんです」
美しくも幸福でもない人だからこそ、ドラマは生まれる――。その言葉を信じるならば、ドラマの生まれそうな、我々チェリーとしては、勇気づけられるお言葉。
「イケメンには素晴らしい作品は作れないはず!」と思い込んで線引をし、自己肯定していた我々にとっては、信じていたものを破壊する脅威の存在であるはずの竹重さんだが、なぜだか親近感も湧いてしまう、魅力的な方。外見が美しく、中に醜い部分を持った男は最強である……と感じたインタビューだった。
(取材・文:霜田明寛)
■関連情報
・ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2016 美女捨山/BIJO-SUTE
・映画『美女捨山』は~2017年にDVDが発売予定。今後上映なども予定されています。