ー3カ月前、童貞を捨てた。思ったほど、世界は変わらなかったー
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五百旗頭幸男「ローカル局視点だからこそ見えたキー局のおごり」

2020年、ドキュメンタリー映画としては異例のロングランヒットを記録した『はりぼて』。
コメディタッチのエンターテイメントとして楽しめる作品になっているが、富山市議会議員14人の連続辞職のきっかけとなった、富山県・チューリップテレビの調査報道がもとになっている。『はりぼて』の共同監督を務めた五百旗頭幸男(いおきべ・ゆきお)さんは、作品の最後で自身の退社を匂わせ、実際に2020年から石川テレビ放送に移籍。ドキュメンタリーを作り続けている。
そしてこの度、五百旗頭さんの監督第2作の映画として全国に届けられるのが『裸のムラ』だ。元となった番組は日本民間放送連盟賞番組部門のテレビ報道番組部門で最優秀に輝くなど、評価も高い。

数々のドキュメンタリー映画監督に話を聞いてきた文化系WEBマガジン・チェリーでは
五百旗頭さんにインタビュー。
『裸のムラ』の話はもちろんのこと、五百旗頭さんの若手の頃のお話や、
・ローカル局のスポーツ報道に感じた違和感
・キー局とローカル局の視線の差
など、本来の役割である“権力の監視”を放棄しつつあるメディアへの危機感などをたっぷりと語ってもらった。

■“笑えないキャスター”

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――前職の富山県のチューリップテレビでは、毎日の夕方のニュース番組に出演するキャスターを務められていたんですよね。ドキュメンタリーの制作者が喋るパターンというのはなかなか少ないと思うので驚きました。

五百旗頭「キャスターは実は“やらされていた”という感覚なんです(笑)。僕の意識としては自分は記者でありディレクターで……何回も断ったんですが、最終的には局長に『ドキュメンタリーの取材があるときはニュースを休ませてください』というお願いをして、それを条件に引き受けました。なので、よくニュースを休んでいました……」

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――看板番組をよく休むキャスター、なかなか珍しいですよね(笑)。若手の頃はスポーツキャスターをされていた時代もあったとか。

五百旗頭「僕、ほんとに笑えなかったんです……。スポーツキャスターだから笑顔を作らなきゃいけないんですけど。『表情が硬い!』とか怒られながら、本当に出るのが嫌になってしまって……。でも笑えないものは笑えないしで、向いてないなと自覚したんです。自然にカメラに向かって笑顔ができる人を見て、あれは天賦の才だな、と(笑)。自己嫌悪に陥る一方、取材してニュースの特集や番組を作るほうに面白さを感じて、自分にはこっちが合っているな、と気づいて今に至ります」

■ローカルのスポーツ報道に感じた“宗教感”

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――スポーツ取材をしていた頃に培われた感覚で、今に繋がっていると感じるものはありますか?

五百旗頭「正直、地方局のスポーツの報じ方を気持ち悪く感じてしまったんです。Jリーグにバスケ……その地域のチームの成績が悪いと『チームが苦しいときこそ、県民の力でバックアップして盛り上げましょう!』みたいなノリになるんです。どこの宗教だよ、って感じじゃないですか(笑)」

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――たしかに、チームの調子と県民の応援は相関関係にはないはずですよね……。

五百旗頭「どこかマズい部分があるからその順位になってるわけですよね。なのに県民の士気に繋げるような報道を各社がやっている。だから僕は、良いところと悪いところをちゃんと指摘したり、過去の映像をもとにプレイを分析したり……という報道をしていたんですが、浮くんですよね(笑)。浮くだけならまだしも、監督から煙たがられて取材に応じてもらえないこともありました。選手は支持してくれたので、取材は続けられましたが」

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――まさかの地元のチームの監督に取材拒否されるようなことがあるんですね。

五百旗頭「他にも、富山グラウジーズというバスケットボールのbjリーグ(当時)のGM(ゼネラルマネージャー)に会見で『あなたの質問には応じません』と言われたことがありました」

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――何があったんですか?

五百旗頭「僕が富山グラウジーズの給料未払い問題を報じたからなんです。チームの資金繰りが悪くて、選手にチケットを売らせたりもしていて。夢を売る商売なのに、それはあってはならない話だなと思って。僕らが報じないと、知られないままの話になってしまいそうだったので、報じただけなんです。そうしたら、GMと仲が良かった僕の上司には怒られましたし、会見では質問を拒否されましたし……」

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――なんだか菅義偉元首相と、東京新聞の望月衣塑子記者のような関係性ですね……。でもさすがに周りの記者たちは味方してくれたんじゃないですか?

五百旗頭「いえいえ、会見場はシラーっとして『五百旗頭さん、何やってるの?』」っていう空気でした。でも、自分のスタンスは浮いてるけど、間違ってはいないと思っていました。むしろ、馴れ合いになってしまうことのほうに危機感を抱いていました。周りが自分と違う雰囲気だからって、そこに合わせる必要はない。むしろ、それをしてしまった瞬間に、この仕事をする人間として終わるなと思っています。僕たちの仕事は馴れ合うことじゃなくて、権力をチェックすることですから」

■取材姿勢に表れるキー局とローカル局の視線の差

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――当たり前のこととはいえ、五百旗頭さんが数としては少数派であるそのスタンスを貫けたのは何か土壌があってのことなのでしょうか?

五百旗頭「僕のいたチューリップテレビは、全国のテレビ局の中でも最小規模ですし、エリア内でもずっと馬鹿にされてきました。大手の局に入ったりしたら、その立場を失うことを恐れてしまうと思うんですが、僕には失うものは何もなかったんですよね。僕ももしかしたら、キー局に入社していたら迎合しまくりだったかもしれませんよ(笑)」

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――1990年開局の比較的若い局ですし、持たざる者だからこその強さがあったんですね。

五百旗頭「そういう環境だったからこそ、目線を低くできたのはよかったと思います。低くせざるを得なかった、とも言いますが(笑)。逆に、大手メディアが『第4の権力』と呼ばれるくらい、権威化しすぎているのは問題だと思います。上からの目線で物事を見てしまったら、表現は鈍ると思うんです」

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――そういった大手メディアと五百旗頭さんのいるような地方局との目線の差を実際に感じることはありますか?

五百旗頭「地方で大きな事件が起きると、キー局をはじめとする、大手メディアの人たちが、一斉にやってきます。するとどんなことが起こるかというと――例えば、2・3年目の若い記者が、まだ容疑がかけられただけの刑も確定していない高齢の社長に対して『おいテメエ!ちゃんと答えろよ!』と恫喝まがいの取材をしていたり……。被害者遺族にキー局の記者が隠しマイクを持って近づいて話を聞いた音声に、それを遠くからカメラで隠し撮りした映像をあわせて全国ネットで流したり……。そういうことをされた人たちにとっては、キー局の彼らも僕らも同じ“マスコミ”です。だから、次に僕たちが取材に行くと『マスコミめ!ふざけるな!』と追い返されてしまう。僕らは同じ土地で取材を続けなければならないから、普段からどうやって関係性を構築するかを慎重に考えています。そうやって僕らが丁寧に耕した土地に、急に大手メディアの人達がやって来て荒らして帰っていく――正直、軽蔑していますし、そうなったら終わりだなと思っています。逆に僕らには、彼らのようなプライドや特権意識のようなものが希薄だからこそ、できる表現があるとも思っています」

 

■この国のムラ社会に通じる2つの“ふへん性”

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――『はりぼて』も今回の新作の『裸のムラ』も、たしかに五百旗頭さんの丁寧な“下から目線”を感じます。新作は県知事をはじめとする石川県の政治家たち、ムスリムの一家、車で異動しながら生活するバンライファーたちと主に3つのパートで構成されていますね。

五百旗頭「県庁というひとつの題材だけを取材しても、この国のムラ社会の空気はある程度感じてもらえるとは思ったんです。でも、世の中の空気は複雑なものですから。一見関係のない3つが、地下水脈のように繋がっている

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――たしかに最初はバラバラの3つが、見ていると、段々と繋がっていることを感じていきました。

五百旗頭「男ムラの代表のように見える県庁だけではなく、ムスリムの中にも、バンライファーの生活の中にも矛盾はあります。通じるのは2つの“ふへん性”なんです。不変であり、普遍。もちろん明確かつ端的に言葉で表せるものではないのですが、この国のムラ社会の“ふへん性”を感じてもらえるようには作りました」

■好かれることが目的になってしまった記者たち

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――『はりぼて』は主に政治家が被写体でしたが、『裸のムラ』は一般の人々の家庭の中にも入り込んでいきますよね。視点や取材するときの接し方は変わってくるものなのでしょうか?

五百旗頭「やはり権力者に対する眼差しと、市井の人々に対する眼差しは根本的に異なりますよね。権力者に対しては、僕たちはウォッチする役割ですから自然と厳しくなりますが、市井の人々にいたずらに厳しくする必要はない。仲良くなるケースだってあります。でも、聞きづらい質問が出てきたときに、一般の人だから聞けない、というのではダメなんです。作品で伝えたいことのために必要なことだったら、鋭い質問でも緩めてはいけない。もちろん、そのために、聞きにくいことを聞いたくらいでは壊れない関係性を、日々の取材活動の中で築いていく必要性があるわけですが」

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――なかなか絶妙な采配が求められそうです。

五百旗頭「まあ、でも僕らの仕事は好かれることが目的ではないですからね。よく政治家やスポーツ選手といった著名人と、自分が仲がいいことをアピールしたいがためだけの記事を見かけますが、愚の骨頂ですよね。目的はそこじゃないでしょ、という。仲良くなること自体を否定するわけではありませんが、“仲良くなったから聞けません”ではダメなんです」

■10月9日に公開討論!?

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――今回登場する一般の人々の中でいうと、バンライファーの中川生馬さんとの距離感はなかなか難しそうだなと感じました。

五百旗頭「彼はお仕事が広報マンなので、『こういうシーンを撮ってください』みたいなことを、彼の都合で言ってくるんです。でも作品に必要ないと僕が判断したら拒否していました。『僕はあなたの宣伝をするためにこのドキュメンタリーを撮ってるんじゃないんです。中川さんにとっては嫌な部分も映ることになるかもしれないけど、それを理解した上で取材に応じてもらっていると僕は思っています』と伝えると『そうでしたね、すみません(笑)』といったやり取りはありました。お互いに意見をぶつけあって折り合いをつけているので、健全な関係だと思っています」

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――撮っている間に、取材開始時に想像していた姿とは違うものを撮るべきだと感じることもありそうですしね。

五百旗頭「中川さんは6社くらいの広報を請け負ったりしているので、とにかく仕事が忙しいんです。本人は“自由な働き方”を標榜しているけど、これは本当に自由と言えるのだろうか……と僕は思い始めて。なので、その視点は作品に入れています。本人はもしかしたら“かっこいいバンライファー・中川生馬”みたいな作品を想像しているかも知れませんが……(笑)。公開直後の10月9日の金沢での舞台挨拶に中川さんに来てもらうことになっているので、クレームがある場合はその壇上で伝えてもらうようお願いしています」

■“取材の加害性”を自覚しているからいい……わけではない

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――今回の作品に登場される別の方でいうと、ムスリムの一家には思春期の子どもたちもいますし、中川さんに対するのとは別種のコミュニケーションが必要そうですね。

五百旗頭「次女のカリーマさんに、ムスリムとしてどんな差別を受けてきたのか、僕が質問をするシーンがあります。あのシーンは事前にご両親に許可を取って『私達では聞けないので五百旗頭さんが聞いてもらっていいですよ』という言葉をもらってから撮影したシーンです。撮影後も『もしカリーマさんが口に出さなかったとしても、家の中での雰囲気で、出さないほうがいいと判断したら言ってください』とご両親にお伝えしています。もちろん細心の注意を払いましたが、最終的にカリーマさんが傷ついてしまったかどうか、僕にはわかりません」

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――傷ついてないと思います、と断言されてしまうよりよっぽど信頼感があります。

五百旗頭「取材する、撮影するということは、根本的に暴力性・加害性のある行為だと思っています。そこからは逃れられないし、そのことに自覚的でないといけない。でも、自覚しているから何をやってもいい、ってことでもない。自覚的だからこそ、取材対象者への暴力性・加害性を最小限に留められるように僕らは努力するべきだし、相手に理解してもらうために言葉・行動は尽くすべきだと思っています。あのシーンはあえて質問する僕の姿も映してもらっていますが、そういった表現における自分たちの恥ずかしい部分も晒さなければいけないんです」

■保守王国を作り上げる“しがらみ”と“無意識”

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――前作『はりぼて』の舞台となった富山、そして今回の石川県……森喜朗さんの持ち上げられ方など、あまりの保守王国っぷりに、正直、北朝鮮の映像を見ているようで怖くなってしまったのですが……。なぜああいった保守的な土地柄というのはできあがってしまうのでしょうか?

五百旗頭「なかなかそこに関しては、根源的なところまで探れてはいないのですが……僕自身、関西という県外からやって来たときに、無意識に権力のある人たちをもてはやし、奉ってしまう傾向は、都会よりも強く感じました。共通認識や不文律のようなものに疑問を感じないというか。右傾化している、ということではなく無意識にやってしまっているのだと思います。地元出身の記者には自民党員の親戚がいる人もいましたが、そういう人が僕のような報道の仕方をしようとすると地元で後ろ指を指されたり……『五百旗頭はしがらみがなくていいよな』なんて言われたりしますが、僕からするとその“しがらみ”に実感がわかなくてよくわからないんですよね(笑)」

■麻痺しないために

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――こうしてお話を伺っていると、“マスコミ”の中に入っても保守王国の中に入っても変わらない五百旗頭さんに染まりきらない強さのようなものを感じました。麻痺しないためのコツのようなものがあったら教えてください。

五百旗頭「自分を過信しないこと、じゃないですかね。特に若い頃は、認められたいっていう意識も強いし、ちょっとした成功体験に寄りかかってしまいがちだと思うんですよね。僕自身、チューリップテレビでスポーツ担当になった頃は、自分の企画が通ってよく放送されていたし、褒められることもあったしで、他の若手よりできるって意識があったんです。自信満々で、制作者フォーラムという30歳以下の制作者の作品を審査する会に応募して、賞を取る気満々だったんですが……。そこで大勢の前でボロカスに酷評されて。すごいショックだったんですけど『俺ってダメなんだ』って実感することで、いい意味で自分を疑うことができたんです。作ることに対して1から自分と向き合うことができた、というか。そこから時間はかかりましたが、『はりぼて』をはじめ、色々と賞を取れるようになっていきました」

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――特にテレビ局の人は倍率高い試験を突破した、というだけで過信しがちになってしまう気はします。

五百旗頭「そうなんです。仮に大手メディアに入れたとしても、言ってしまえば入っただけ。スタートラインに立っただけなんですよね。そこから何をやるかが大事なんですけどね。自分をいかに疑えるか。そして、人の意見に耳を傾けて、その意見が本当に自分の役に立つかどうかまで含めて咀嚼できるか。いい意見はやっぱり柔軟に取り入れていけばいくほど、いい作品になっていきますしね。『裸のムラ』の制作過程においてもそういうことはいっぱい起こっています」

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――個人で麻痺しないのもすごいですが、チームで麻痺しないのもすごいですよね。

五百旗頭「そこは“阿吽の呼吸”ですかね。カメラマンひとりとっても、監督が撮りたいものを、どのくらいの深さで理解しているかで撮れるものが変わってきます。ニュース映像としてだけではなく、その後に番組になることまで考えて現場で撮ってくれるようなカメラマンに僕は恵まれています。『裸のムラ』のカメラマンの和田さんとも、もちろん日々コミュニケーションはしましたが、起きた出来事に能動的に動いてくれて。特にラストカットは、ある2人の表情を見せたものになっているのですが、その僕らの“阿吽の呼吸”がいかされたものになっていると思います」

取材中「僕、空気が読めないんです」と笑っていた五百旗頭さん。もちろん、細かくこちらに気を配ってくださったりと、読めない人だとは感じなかったが……。ドキュメンタリー制作者でありながらキャスターとして番組にも登場したり、自分の出身地ではない場所で取材を続けたり……少数派としての戦いを続けることで、空気を感じとった上で敢えて“読まない”という術を身につけ、それがこの見る者を刺激する作品に結びついているのかもしれない。

(取材・文:霜田明寛 写真:勝田健太郎)

<作品情報>
『裸のムラ』

hadakanomura.jp ©石川テレビ放送
監督/五百旗頭幸男 撮影/和田光弘 編集/西田豊和 音楽/岩本圭介 音楽プロデューサー/矢﨑裕行 プロデューサー/米澤利彦 制作/石川テレビ放送
配給/東風
10月8日(土)よりポレポレ東中野、金沢・シネモンド、10月14日(金)より京都シネマ、10月15日(土)より大阪・第七藝術劇場ほか全国順次公開

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